大久保忠行

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大久保 忠行(おおくぼ ただゆき、? - 元和3年7月6日1617年8月7日))は、戦国時代から江戸時代武将治水家。徳川氏の家臣。宇津忠茂の5男。通称藤五郎(とうごろう)、主水(もんと)。

生涯[編集]

宇津忠茂の5男で、兄に大久保忠俊大久保忠員、従弟に大久保忠世がいる。

徳川家康に仕えて当初は戦場働きをする武将だったが、永禄6年(1563年)の三河一向一揆で負傷した際に歩行が不自由になった。そのため、以後は奉行・治水家として転身した。

家康が関東に移った際、当時の江戸が水利に乏しく、飲料水に必要な良質な水が得られないことから、忠行に上水道構築の調査や敷設を命じた。忠行は武蔵野の井の頭池を主要水源として、江戸川の水流を江戸城下に引き込んだ神田上水を建設した。この難工事を見事に成し遂げた忠行を家康は大いに賞賛し、忠行に「主水」の官途を与えて名乗るように命じた。普通は「もんど」と読むのだが、家康は「ど」と濁ること、つまり「水が濁ることに通じる」ということから、濁点をとって「もんと」と名乗るように命じたという。

また、主水は武士ではあったが、菓子作りの趣味があり、ある時に家康に菓子を献上すると、食した家康が天下一品と褒めたたえて賞賛したという。

家康の後を追うように翌年に死去した。嫡子とされる2代目大久保主水は、実は家康の落胤とされる。忠行の死で知行地300石は没収され、主水は武士を辞めて商人に転身し、菓子職人として江戸幕府の御用達にまで栄進。以後、歴代の子孫は大久保主水を名乗って菓子の世界で名を成したという。

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