大下弘
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県神戸市三宮 |
生年月日 | 1922年12月15日(101歳) |
没年月日 | 1979年5月23日(満56歳没)[1] |
身長 体重 | 173 cm 70 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1946年 |
初出場 | 1946年4月27日 |
最終出場 | 1959年8月26日 1960年3月1日(引退試合) |
大下弘 | |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
野球殿堂(日本) 殿堂表彰者 | |
選出年 | 1980年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
大下 弘(おおした ひろし、1922年12月15日 - 1979年5月23日)は、日本のプロ野球選手。
略歴[編集]
1922年、兵庫県神戸市生まれ。台湾の高雄商業から明治大学商学部、陸軍航空士官学校卒業。1946年、シーズンホームラン20本を打ち、赤バットの川上哲治(巨人)とともに、「青バットの大下」として、戦後スーパースターとなる。通算打率.303を残す。現役引退後は阪急一軍打撃コーチ、東映監督、大洋一軍打撃コーチを務めた。
1980年、野球殿堂入り。しかしその前年に服薬自殺した。千葉市稲毛区柏台の稲毛ファミールハイツに住む。墓所は千葉市営平和公園墓地D地区。首位打者3回、本塁打王3回、MVP1回、日本シリーズMVP1回、オールスターMVP1回、べストナイン10回。
大下本人や西鉄選手との遊廓をめぐるエピソードには事欠かないが、大下の妻は小遣いと別に「素人に手を出さないこと」を条件に「生理休暇代」を渡していた。大下が増額をねだると「何を言っているんですか。必要な場合は私が出前出張します」と言って手をはたいたという。
毎晩のように遊び歩き、また後述のように面倒見のよい性格で金が手元に残らなかったらしく、母親もヒロポン中毒に苦しんでいたために西鉄球団に莫大な前借りをしていたと言われる[注釈 1]。西鉄時代は若手選手の面倒見がよく、河村久文と八浪知行を自宅に下宿させていた。大下は河村と八浪からは食費さえ取らなかったが、「遊びもしないとストレスがたまる」ということで大下の妻も交えた賭博(河村の述懐によれば「こいこい」)を行っていたため、いつも負けてばかりの2人は大下夫妻にお金を巻き上げられていた。もっとも大下の妻はこの金をそれぞれの名義で貯金しており、2人が下宿を去る際にはそれぞれにこの預金の通帳を渡したという。そのことを知った2人は感動してそれまで以上に野球に打ち込み、西鉄初優勝(1954年)に河村はエースとして、八浪はムードメーカーとしてそれぞれ重要な役割を果たした。
こうした奔放な「大人の遊び」の一方、子供が大好きで西鉄時代は平和台球場でのデーゲーム終了後、帰宅する大下の後をはしゃぎながらついていく子供たちの姿が目撃されている。大下は普段から自宅を子供たちのために解放しており、宿題を終えた子供たちに野球を教えたり、また夏にはキャンプを行ったりしていたという。大下の妻曰く、「本人が大きな子供のようでした」。大下自身は日記に以下のように記している(原文は旧かなづかい)。
「大人になると子供と遊ぶのが馬鹿らしくなる」と人は云うかもしれないが、私はそうは思わない。子供心にかえるのが恐しいから云うのだろう。余りにも汚い大人の世界を、子供の世界を見たばかりに反省させられるのが嫌なのかも知れぬ。私は其(そ)の反対だ、子供の世界に立入って、自分も童心にかえり夢の続きを見たいからなのだ。子供の夢は清く美しい。あえて私は童心の世界にとびこんでゆく。
酒豪であるとされ、7打数7安打のときは徹夜でのんだ後に打ったといわれた。「ボールがいくつも見えた」という本人“談”とともに長くそれが真実と思われていたが、本人は否定していた。実際の所の大下の酒量はビール1本程度であったという。
著書[編集]
- 「大下弘日記」
- 「青バットから一本足まで」
- 「親と子の野球教室」
- 「プロ野球選手の真似はするな」
脚注[編集]
注釈[編集]
- ↑ 東急退団の際に球団に返済した借金は168万円。ただし「家を購入する際は球団がその一部をもつ」とした50万円も含まれていた。
出典[編集]
- ↑ 森岡浩 『プロ野球人名事典 1999』 日外アソシエーツ、1999年、85頁。ISBN 978-4-8169-1543-7。