岡田文吉

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岡田 文吉(おかだ ぶんきち、1907年7月6日 - 1966年10月10日)は、日本の社会運動家。元・日本共産党中央委員、書記局員。「人民艦隊」責任者[1]

略歴[編集]

鳥取県生まれ。1931年日本共産党に入党。1933年検挙され、網走刑務所に服役[2]。1939年網走刑務所を満期出獄[3]。獄中で徳田球一から指示を受け[2]、1941年中国延安に行き野坂参三と共に日本人反戦同盟の活動を指導[3]。1946年2月の第5回党大会で中央委員[4]、5月の第2回中央委員会総会で書記局員[5]、1947年12月の第6回党大会で統制委員[6]。1950年6月6日の公職追放による主流派の地下潜行後は北京に渡り、北京機関の高級幹部となった[7]。1951年9月3日に占領軍政策違反として臨時中央指導部員や国会議員ら17名と共に逮捕状が出された[8]。同年11月に北京に到着した伊藤律と入れ替わりに日本に帰国した[2]。1950年代「人民艦隊」の隊長として何度か日中間を往復し、徳田球一書記長を含む幹部や党員を中国に運んだ[3]。1955年7月の第6回全国協議会(六全協)で中央委員[9]、1957年3月の第11回中央委員会総会で書記局員[10]。1958年4月12日に人民艦隊事件で検挙、5月1日に出入国管理令違反幇助罪で起訴、同月7日に釈放された[11]。1964年日共代表団の一員として訪中。このとき既に病を得ており、1966年10月に病状が悪化して死亡した[3]

人物[編集]

  • 所感派の中堅幹部だった増山太助によると、岡田が「人民艦隊」の活動を行ったというのは表面だけの話で、実際には永山正昭ら共産党海員グループが担っていた[12]
  • 親中国派だったと言われている[13]自由日本放送で働いていた国谷哲資によると、日中共産党の関係が悪化する中、西沢隆二(ぬやまひろし)が中国派として除名されたことを聞き、「怒りが高じて憤死した」と言われている[3]。岡田の死後、妻は「反党活動」に加わったとされる[14]

脚注[編集]

  1. 小山弘健著、津田道夫編・解説『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』こぶし書房(こぶし文庫 戦後日本思想の原点)、2008年、336頁
  2. a b c 伊藤律『伊藤律回想録』文藝春秋、1993年、33頁
  3. a b c d e 国谷哲資「北京追憶――若者が体験した戦後日中関係秘史――」『アジア社会文化研究』20号、2019年3月
  4. 『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』33頁
  5. 『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』42頁
  6. 『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』56頁
  7. 川口信行、山本博『伊藤律の証言――その時代と謎の軌跡』朝日新聞社、1981年、173頁
  8. 『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』155頁
  9. 『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』213頁
  10. 『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』290頁
  11. 『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』294頁
  12. 増山太助『戦後期左翼人士群像』柘植書房新社、2000年、210頁
  13. 佐藤正『日本共産主義運動の歴史的教訓としての野坂参三と宮本顕治――真実は隠しとおせない 下』新生出版、ディーディーエヌ(発売)、2004年、95頁
  14. 共産党袴田事件 第一審

関連文献[編集]

  • 楊国光『ある台湾人の軌跡――楊春松とその時代』露満堂、1999 年