労働者階級解放闘争同盟 (革共同系)

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労働者階級解放闘争同盟(ろうどうしゃかいきゅうかいほうとうそうどうめい)は、革共同系の新左翼党派。略称は労闘同[1]。「『赤い旗手』グループ[2]「赤い旗手」派」とも呼ばれる[3]

概要[編集]

1961年10月の第四インター日本支部の第2回大会後、西岡谷派の加入戦術に反対する一派が革命的理論建設派を形成した。1962年12月に労働者階級解放闘争同盟を結成し、機関紙『赤い旗手』を発行したが、1963年8月に解散して中核派に合流した[4]。『戦後革命運動事典』巻末の「反日共系・新左翼各派の系譜」によると、第四インター日本支部から「労階級解闘連」が派生し、中核派に合流した。

『日本革命的共産主義者同盟小史』によると、1961年の第四インター日本支部第2回全国大会の後、社会党社青同への加入戦術をめぐって対立が起きた。関西の青年インターメンバーは指導部の大原に不満を持ち、大原は関東の青年インターメンバーと結合して「革命的分派」を結成した。続いて1961年末の6中委の後、関西と神奈川のメンバーが「革命的理論建設派」を結成した。中心は大原指導部との闘争で先頭に立った京大の篠原だった。2つの分裂は第四インター日本支部の中央機関に打撃を与えた。酒井与七は「革命的理論建設派」について「彼らの言い分は『結局のところ、我々はトロツキストだと思って活動してきたが一切は全く疑がわしいということに気づいた。自分自身、果して現にマルクス主義者であるか否かわからない。まず、このことを理論的に確かめ、そして世界革命の理論、その展望、戦略、戦術を明らかにすることが第一に必要なことであって、それ以前には一切の実践は行うべきではない』として、書斎派の立場へ『確固として』移行し、一切の大衆的諸闘争への参加を拒むことによって、同盟から分裂していった。このグループは、黒寛に接近しつつ、革共同全国委員会に参加し、今日『前進派』にいる」とまとめている[2]

出典[編集]

  1. 本多延嘉 「10 第四インターの分解と中ソ対立について」(『前進』147号1963年8月19日) 革命的共産主義者同盟再建協議会
  2. a b 第四章 労働者の中へ ― 加入活動の時代 ― 日本革命的共産主義者同盟小史
  3. 第1章 解党主義論争と"50年代世代" 政治グループ・MELT
  4. 社会問題研究会編『増補改訂'70年版 全学連各派―学生運動事典―』双葉社、1969年、164頁

関連文献[編集]

  • 水谷保孝岸宏一『革共同政治局の敗北1975~2014――あるいは中核派の崩壊』(白順社、2015年)

外部リンク[編集]