加戸守行

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加戸 守行(かと もりゆき、昭和9年(1934年9月18日 - 令和2年(2020年3月21日 )は、日本政治家愛媛県知事(第14~16代)、元文部官僚、「美しい日本の憲法をつくる愛媛県民の会」実行委員長、日本会議愛媛県支部相談役。愛媛県知事は3期12年務め、開かれた県政をモットーにしたことで知られている。

経歴[編集]

中国大連市の出身。愛媛県八幡浜高校東京大学法学部を卒業し、昭和32年(1957年)に文部省に入省し、著作権法制定や教員の初任者研修制度の創設などに尽力し、文化庁次官や同省の官房長を歴任した。退官後は日本芸術文化振興会国立劇場)理事長や日本音楽著作権協会理事長などを務めた。

平成11年(1999年)に愛媛県で36年ぶりに保守が分裂し、同年に正月の知事選挙が実施される事態になると、加戸は自民党の推薦を得て無所属で立候補。当時、4選を目指していた現職の伊賀貞雪を破って知事に就任した。しかし加戸は選挙中から「閉鎖的」との批判を受けていたことから、県政を県民の県民による県民のための県政、として開かれた県政と職員の意識改革を促した。

平成13年(2001年)にえひめ丸事故が起きると、自ら対応の陣頭指揮を執る。また県内70の市町村が20の市町に再編された平成の大合併を積極的に推進した。平成18年(2006年)には四国電力伊方原発3号機のプルサーマル計画に同意した。加戸は県民が相互に支え合う「愛と心のネットワークづくり」を提唱し、南予活性化や県立病院の経営健全化などにも取り組んでいる。

平成22年(2010年11月、任期を残して中途で退任。当時の松山市長であった中村時広を自らの後継者に指名して支援し、その後も影響力を保持した。退任後は政府の教育再生実行会議の有識者メンバー、愛媛県憲法改正国民投票連絡会議の共同代表を務めるなどしている。また、加戸は知事時代に誘致に関与した学校法人・加計学園岡山理科大学獣医学部の開設をめぐる経緯が国会で問題になると、参考人として出席して誘致の正当性を主張している。

平成23年(2011年)に愛媛県功労賞を、平成24年(2012年)に旭日重光章を受章した。

令和2年(2020年)3月21日午前8時57分、骨髄異形成症候群のため、愛媛県の病院で病死。85歳没。

著作[編集]

  • 『著作権法逐条講義』(社団法人著作権情報センター
  • 『我が流儀は「加戸流」』(愛媛ジャーナル、2001年)・・・放送でのインタビューをまとめたもの

家族[編集]

  • 兄(加戸弘二) - 医療法人弘友会会長(加戸病院初代院長)[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. 加戸弘二氏(医療法人弘友会会長、加戸守行前知事の兄) - 愛媛新聞(2017年2月20日)、2019年3月10日閲覧。