切捨御免
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切捨御免(きりすてごめん、斬捨御免・切り捨て御免・斬り捨て御免)とは、苗字帯刀とともに、江戸時代の武士に認められた殺人の特権である。別名を無礼討(ち)(ぶれいうち)とも言う。
概要[編集]
江戸時代の武士階級が自分より下の身分である百姓あるいは町人などの庶民の非礼、あるいは無礼な言動により名誉を傷つけられた場合などに、それらの対象者を斬殺する特権のようなものである。ただし、テレビドラマや時代劇などでは相手を殺傷してとどめまで刺すのが普通に行なわれているが、実際に認められていたのは相手を殺傷するまででとどめを刺すことは認められていなかった。
また、これらの特権は無制限に認められていたわけではない。例えばこの行為を行なった場合には証人を必要とし、事後の取り調べにおいてその正当性を立証しないといけない。もし証人がいない場合においては裁きを受けることになり、最悪の場合は処罰を受けることすらあった。武士の優位性を確立するために認められていた身分的特権であったが、あくまでその行使については抑制されていたのである。
非認定の例[編集]
- 江戸時代後期の遠江国浜松藩主・井上正甫は文化13年(1816年)、狩りにおいて農家で留守番をしていた女房を押し倒し、そこへ帰宅してきた夫に見つかって激怒した夫は天秤棒を振り上げ、女房の上に乗っていた正甫を殴りつけた。正甫は抜刀して夫の片腕を切り落とし、後始末を家臣に任せて農家夫婦は領地の浜松に移送して口封じをした。つまり一方的な「無礼討」と見なしたのである。しかし、この無礼討は当然認められず、江戸幕府は翌年に正甫を陸奥国棚倉藩という山間の僻地に移封して処罰した。
- 江戸末期の旗本子息の近藤富蔵は、1826年に自家遊地を賃貸した町人一家を賃料や土地トラブルから斬り付けたが、特権行使と認定されずに、裁きで八丈島への流罪とされた。以後、富蔵は半世紀近く八丈島で流人生活を送り、本州へ帰還したのは明治維新から10年以上経過した1880年である。