内藤則邦
内藤 則邦(ないとう のりくに、1923年8月20日[1] - )は、社会政策学者。立教大学名誉教授。
経歴[編集]
福島県田村郡三春町生まれ。実家の家業は味噌醤油の醸造業。1941年福島県立田村中学校卒業[2]。1943年立教大学経済学部予科入学[1]。在学中に学徒出陣で海軍に入隊するが、病気のため半年ほどで除隊[2]。1945年立教大学経済学部本科入学[1]。立教でも教鞭を執っていた東京大学教授の大河内一男と出会い、東大の大河内ゼミに参加。1947年に大河内に代わって隅谷三喜男が立教で社会政策を担当するようになり、隅谷ゼミに参加し、引き続き東大の大河内ゼミにも参加[2]。1948年立教大学経済学部卒業、同研究科入学[1]。籍は立教にあったが、実際は東大で大河内・隅谷の指導を受けた[2]。
1950年立教大学経済学部研究科修了、東京大学社会科学研究所労働問題調査研究会無給調査員[1]。大河内の下で研究徒弟の生活を送り、1958年に立教大学の専任講師になるまで東大経済学部の隅谷研究室に通った[2]。労働問題調査研究会メンバーとして「産業別労働組合(単産)調査[注 1]」「労働争議事例調査[注 2]」「京浜工業地帯調査[注 3]」「郵政現業職員調査[注 4]」に参加[2][3]。大河内の下で1950年の結成準備段階から1952年度まで社会政策学会の事務局として実務を担当[2][4]。
1952年高崎市立短期大学専任講師、1955年助教授。1957年立教大学経済学部非常勤講師、1958年専任講師、1955年助教授(社会学部・法学部兼担)、1964年教授[1]。長幸男によると、内田義彦らが山田盛太郎を学長にして高崎市立短期大学を4年制の大学にしようとしたが、学内騒動になってそのプランが潰れ、東京から来ていた大石眞三郎、内藤則邦、松浦高嶺、島崎稔、石本美代子(島崎美代子)、高橋洸、長幸男らは東京に引き上げたという[5]。この間、財政学者の遠藤湘吉とともに「日本炭鉱労働組合支部組合財政実態調査[注 5]」(1954-55年)を行う。大河内一男編著『日本の労働組合』(東洋経済新報社、1954年)で遠藤とともに組合財政の章を担当。1955年にフォード財団の援助を得て大河内の下で開始された『日本労働運動史料』の蒐集・編纂の事業に参加し、白井泰四郎とともに昭和7年以降の第4期(第7・8・9巻)を担当。日本労働協会にいた白井と関係を深める[3]。
1968年4月から1969年3月までイギリス・シェフィールド大学客員教授[1]。留学後、日本労働問題・労働組合研究からイギリス労働問題・労働組合研究に転換[3]。1975年に「イギリス労働問題・労働組合研究史上画期的」と評される『イギリスの労働者階級』(東洋経済新報社)を刊行[3]。文学作品・文化評論や各地域の家族・生活・教育調査を駆使してイギリス労働者階級の価値感や生活構造に迫り、イギリス労働者階級の社会的性格を「ムラ社会」と規定した[3]。80年代に「変革主体」論への訣別、リアリズム的な立場を濃厚にした[3]。日本労働協会編『イギリス日系企業の労働事情』(日本労働協会[海外調査シリーズ]、1986年)の第一部および第二部を執筆。
1989年立教大学を定年退職。多摩大学教授、立教大学経済学部・社会学部非常勤講師[1]。立教大学名誉教授[6]。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ↑ 大河内一男編『日本労働組合論――単位産別組合の性格と機能』有斐閣[東京大学社会科学研究所研究報告]、1954年。
- ↑ 東京大学社会科学研究所編『戦後初期労働争議調査』東京大学社会科学研究所[東京大学社会科学研究所調査報告]、1971年。
- ↑ 神奈川県企画審議課編『京浜工業地帯調査報告書 産業労働篇各論』神奈川県、1954年。氏原正治郎と内藤則邦が執筆。
- ↑ 郵政省大臣官房人事部管理課調査係編『現業職員労働力構成調査中間報告書』郵政省大臣官房人事部管理課調査係、1950年。郵政省大臣官房人事部管理課編『現業職員の実態に関する調査』郵政省大臣官房人事部管理課、1951年。
- ↑ 内藤則邦「炭鉱労働組合の組合財政――日本炭鉱労働組合支部組合財政実態調査より」『社會科學研究』第7巻第5号、1956年8月。