八戸騒動

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八戸騒動(はちのへそうどう)とは、江戸時代前期に陸奥国八戸藩で発生した御家騒動である。この騒動は本藩と支藩が対立して騒動に発展したものであった。

概要[編集]

藩主暗殺[編集]

寛文8年(1668年)6月21日朝、八戸藩主・南部直房が居室において近習梶川幾右衛門石原閑之助によっていきなり刺殺された。彼らは直房の首級を持って城外に逃走しようとしたが、変事に気付いた家老の山崎勘兵衛が梶川を追いかけてで刺殺して直房の首級を取り返した。また、同じ家老の中里弥次右衛門が石原を追跡して斬り捨てた。

ただし、直房が殺されたということは十分な不祥事であり、江戸幕府から改易を申し渡されても言い訳のしようがないものであった。八戸藩はやむなく直房は病死したと2か月後の8月24日になって発表した。

黒幕の存在[編集]

八戸藩は、石原と梶川が誰によって差し向けられた刺客であるかはわかっていた。南部氏の本家・盛岡藩によるものである。

そもそも盛岡藩と八戸藩は、本家と分家、本藩と支藩という間柄でありながら、確執が続いていた。本家盛岡藩の第2代藩主・南部重直は寛文4年(1664年)8月に病死した。重直には男子が無く、また後継者を決めないまま死んでしまったので、盛岡藩は断絶の危機に見舞われたが、藩では重直の弟である南部重信世子として幕府に存続願いを申し入れたが、幕府はすぐに許可を与えなかった。11月になり、幕府は重信とその弟である中里直好を江戸に呼び出し、12月6日に「南部家が特に古来からの名族であることを理由に、本来ならば改易するところを存続を許す、ただし、重信に8万石を、直好に2万石を分け与える」と命じた。つまり、盛岡藩は盛岡と八戸に分かれた上で存続を許されたのである。この中里直好こそ、暗殺された直房の前身である。直房は藩主になると同時に南部直房と姓名を改めた。

ただ、この八戸藩誕生は南部宗家にとっては余り喜ばしいものではなかった。10万石の所領を2万石失い、さらに10万石の格式も同時に失った。そのため、南部宗家は八戸藩を潰すための策謀を繰り広げたとされる。直房の近習だった2人も、直房がいきなり藩主になって家臣団の編成が急務になった際に雇われた存在で、盛岡藩が実は送り込んだ刺客ということだった。

八戸藩存続、そして[編集]

八戸藩の家老・中里と山崎は直房の暗殺をひたすら否定し、藩士らにも箝口令を敷いた。幸い、直房には8歳の息子・南部武太夫がおり、中里らはこの幼児を直房の跡継ぎにと幕府に願い出た。

しかし人の口には戸が立てられないというもので、直房暗殺の噂は幕閣にまで知れ渡るようになり、この件について幕府の調査、並びに尋問する上使が八戸藩江戸屋敷を訪れるほどであった。しかし、中里らはひたすら直房の病死を主張し続け、遂に幕府も病死を認めて武太夫の後継を認めた。こうして、八戸藩は断絶の危機を免れた。

この武太夫は、元服して南部直政と名乗った。直政は学問藩主で、幸いにも同じように学問が大好きだった第5代征夷大将軍徳川綱吉から厚く信任され、貞享4年(1687年)に詰衆に列し、その翌年には御側衆に、さらに柳沢吉保と並んで御側御用人に任命された。さらに陸奥福島に5万石で加増移封の話も出るほど綱吉から気に入られたため、八戸藩の不祥事はすっかり幕府から忘れ去られることになった。一方で直政は、盛岡藩と和解するため恨みを流し、重信の子で第4代藩主となっていた南部行信の4女・志久を正室に迎えた。

しかし、元禄12年(1699年)3月に直政は39歳で死去する。しかし、この際にも行信あるいは隠居の重信の密命を受けて志久に随伴してきた侍女が直政を毒殺した、という噂がまことしやかに流れたと言われている。ただ、盛岡藩は藩の所領が8万石に減少した後、悲願としていた10万石の格式復活は天和3年(1683年)に幕府に認められており、綱吉のお気に入りである直政を暗殺する危険な真似をするかどうかに関しては疑問がある。

直政には2人の女児しかおらず、男子がいなかった。そのため、重信の4男で行信の弟である南部通信が直政の世継として迎えられることになり、八戸藩の血統は盛岡藩に完全支配されることになった。