佐藤次郎 (テニス選手)
佐藤 次郎(さとう じろう、明治41年(1908年)1月5日 - 昭和9年(1934年)4月5日)は、日本の男子テニス選手。戦前の日本においてテニスのウィンブルドン選手権で4強になるなど国際的に活躍した名選手として知られる。
生涯[編集]
1908年に群馬県長尾村(現在の渋川市)で生まれる。早稲田大学に在籍し、その在籍中の1931年に全仏選手権で世界ランク9位となる。1932年にはウィンブルドンと全豪選手権で4強となる。しかしデビスカップ(デ杯)ではイタリアの選手に敗れた。1933年は全仏選手権、ウィンブルドンでイギリスの強豪を破り4強。ウィンブルドン複は準優勝で世界3位となる。しかしこの年のデビスカップでもオーストラリアの若手選手に敗れて欧州ゾーン決勝進出はならなかった。
1933年秋、佐藤は慢性の胃腸病を患っており、さらに物事に集中できない精神的な苦痛もあり診断の結果、神経衰弱も患っていた事が明らかになり、医師からは要休養を命じられた。このため、佐藤は1934年の代表は辞退する意向だった。しかしテニスの男子国別対抗戦であるデ杯は当時、四大大会以上の重みがあった。しかも当時は満州事変に五・一五事件、上海事変と戦争への道が強まる中であった。このような中で国の名誉がかかるデビスカップへの欠場を許されるはずが無く、佐藤は強制的に出場を命じられ、デ杯代表の若い選手3名を引率して遠征に赴いた。
この時の佐藤は精神的に疲弊した状態だったと見られる。シンガポールに到着の直前、下船して自ら帰国する意思を示したという。この事は他の選手が電報で日本庭球協会に伝えたが、同協会事務局長だった久保圭之助は「デ杯選手のために内地にても基金募集に苦心中、無理してもマルセイユまで遠征決行されたし」と返電した。当時の協会はデ杯優勝でパリに拠点を設けたフランスに倣って日本でもデ杯制覇で東京に大テニスコートを建設する構想を持っており、また同協会の財政改善も狙いの一つにあったが、そのためには肝心の佐藤がチームから外れたら世界制覇への道が遠のく危険性があったため、久保は遠征続行を指示したという説がある。そして佐藤も翻意したとの電報が届けられた。これが1934年4月4日のことであった。
佐藤にすれば精神的に追い詰められていたので電報を出す事で少しでも休養したいという気持ちもあったのかもしれない。しかし帰国は許されず、かといってデ杯戦に出ても国の名誉を汚す結果しか予想できず、エースは進退窮まった可能性がある。4月5日夜、佐藤はマラッカ海峡において船から投身自殺を遂げた。26歳の若さだった。その直前、ダークスーツに着替える佐藤の姿が目撃されている。
佐藤が果たせなかったウィンブルドン優勝の夢は2015年、錦織圭に託され、同選手権が2015年6月29日から開幕する予定である。
佐藤の戦争感[編集]
佐藤は戦争の道が深まる当時において、「デ杯戦は全世界を相手にした戦争」「ラケットは銃であり、ボールは弾丸」「庭球は人を生かす戦争なり」と時代の中にテニスを位置づけている。
佐藤の遺書[編集]
2015年に日本テニス協会において佐藤の遺書が見つかった。遺書は数通あるが、公の組織に宛てたのは1通だけで、国への責任感を強く滲ませている。同協会が古い資料を電子化する過程で数年前に見つけたが一部関係者にしか知られていなかった。日本テニス協会の前身である日本庭球協会の事務局長・久保圭之助作成と見られる資料にとじ込まれていた。遺書は当時の会長であった堀田正恒宛てでシンガポールに着く前日に用紙3枚に走り書きでしたためられている。
内容は「とてもテニスができません」と訴え、期待に応える成績が挙げられないことを死をもって国へ謝罪するとした悲痛なものである。自分を「この醜態さ、何と日本帝国に対して謝ってよいかわかりません。その罪、死以上だと思います」と責め、「私は死以上の事はできません。生前お世話さまになった同胞各位に礼を述べ、卑怯の罪を許されんことを請う。では、さよなら」と結んでいる(原文は旧仮名遣いである)。