中村一氏記
中村一氏記(なかむらかずうじき)とは、戦国時代の中村氏に関する史料である。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者も成立年代も不明。そもそも題名が『中村一氏記』とあるので、一氏の1代記と思われがちだが、実際には一氏の子・中村一忠に関する記述もある。むしろ一忠に関する記述もかなりあるので、一氏記というよりは『中村二代記』というべきものである。別称は『中村家覚書』(なかむらけおぼえがき)[1]。
成立に関しては慶長14年(1609年)の一忠の死去から程ない頃の成立とする説がある[1]。
内容[編集]
中村一氏・一忠父子の家記。全1巻。本文は1つ書き[2]。
本能寺の変で織田信長が討たれた後、羽柴秀吉の命令で和泉国岸和田城によって根来衆や雑賀衆の一揆討伐の功績など、一氏の武功に関する記述が主になっている。ただ、天正18年(1590年)の小田原征伐で一氏が軍功を立てて、戦後に秀吉から駿河国を与えられているにも関わらず、その記述がなぜか存在しない。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで一氏は東軍に属したが、その直前に病死。子の一忠が跡を継ぎ、その功績により戦後に伯耆国米子藩主に加増移封された。一忠については横田村詮殺害事件がむしろ大きな山場となっている[2]。
Wikipediaではこの横田事件について、特に史料も参考文献も提示せず、「事件の報告をうけた徳川家康は、自ら派遣した村詮の殺害に激怒し、首謀者の安井清一郎、天野宗杷をなんら吟味もなく即刻切腹に処した。また、側近の道上長衛門、道上長兵衛には事件を阻止出来なかった理由により江戸において切腹に処した。江戸幕府は、一忠には品川宿止めの謹慎に収めお構いなしとした」などと出鱈目を書いている。Wikipediaが如何に信頼性の乏しいものかをよく物語る事例である。
この事件について『中村一氏記』では家康が若い一忠に対して「アシキ知恵」を進言し、それにより横田が成敗されたことに対して安井に責任を取らせ、死罪を命じた。安井は切腹ではなく、「家に火をかけ父子ともに自害し焼死した」となっている。天野宗杷についても切腹ではなく、キリシタンのため自害を拒否して首を打たれたことになっている。側近の名前についても道上長衛門ではなく、道家長右衛門である[2]。
一忠の死去は慶長14年(1609年)5月11日。Wikipediaでは単なる急死としているが、『中村一氏記』では「川狩に参られ、戻り申され城にて頓死」とある。5月13日に一忠の後を追って殉死した場面が最後に描かれている[2]。