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楯の会事件
楯の会事件(たてのかいじけん)は、1970年11月25日午前11時10分から午後12時20分頃に楯の会メンバーの5名が東京都新宿区市谷本村町の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で起こしたクーデター未遂事件。楯の会隊長の三島由紀夫、同会会員の森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の5名は東部方面総監部総監室で益田兼利総監を拘束し、自衛隊員8名に重軽傷を負わせた。三島はバルコニーで自衛隊員に「おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。」と憲法改正のために自衛隊の治安出動を呼びかけたが、同調者はおらず、三島と森田は総監室で割腹自殺した。小賀、小川、古賀の3名は現行犯逮捕され、1972年に「監禁致傷、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反、傷害、職務強要、嘱託殺人」で懲役4年の実刑判決を受けた。三島・森田の自決は右翼・民族派に大きな衝撃を与え、新右翼が生まれる契機となった。
著名作家の三島が自決した事件であるため、一般的には「三島事件」と呼ばれているが、三島と森田が自決したこと、森田も事件を主導した面があること、楯の会会員が参加したことを重視して「三島・森田事件」「楯の会事件」とも呼ばれる[1]。一部では「森田事件」と呼ぶ人もいる[1]。佐藤忠男は事件の主体は楯の会であり、そこでの三島は隊長としての三島であるため、「三島事件」ではなく「楯の会事件」と呼ぶべきと主張している[2]。楯の会元会員が結成した「蚊龍会」の会員などは森田の参加を重視し、その精神を継承するために「楯の会事件」と呼ぶべきと主張している[3]。鈴木邦男は楯の会全体の決起ではないから「楯の会事件」よりも「三島・森田事件」が正確だろうと述べている[4]。志水速雄は三島が作家として行動したのではなく、政治思想を持った平岡公威(三島の本名)として行動した事件であるため、「平岡事件」、少なくとも「楯の会事件」と呼ぶべきと主張している[5]。右翼・民族派の間では「三島義挙」「三島・森田烈士義挙」などとも呼ばれる。
備考[編集]
- 鈴木邦男によると、森田必勝に対する「負い目」が新右翼をつくった。民族派学生は事件まで三島や楯の会を「小説家の遊び」「おもちゃの兵隊」だと軽視していた。日本学生同盟(日学同)は日学同を退会して楯の会に入会した森田必勝を「共産主義者に魂を売った」と除名処分にしていた。そのような森田が自刃したことは民族派学生に衝撃を与え、運動から足を洗った者が再起するきっかけとなった[6]。
- 日学同系は毎年11月25日に「憂国忌」を開催しているが、日学同が楯の会入会者を除名処分にしていたことから、楯の会元会員や当時の事情を知る者は参加していないとされる[7]。このような民族派学生運動内部の対立に起因して一水会などは毎年11月24日に「野分祭」を開催している[8]。2014年から一水会の単独開催となり、「顕彰祭」と改称した。2020年には「恢弘祭」と改称した[9]。
- 防衛大学校長の猪木正道は全学生に対して「自衛隊の治安出動を非合法的なクーデターの手段にしようと考える」三島の「檄」は「誤りに満ちている」とし、「このような破壊思想は断固として排撃されなければならない」と訓示した[10][11]。また三島の「愛国心には掬すべきものがある」と述べた制服組の副校長に対し、「断じていけない。三島の愛国心を私は認めない。五・一五事件のとき、荒木陸軍大臣が、テロリストの“愛国心”を高く評価したことが、その後も一連の不祥事を生んだと私は考える」と述べた[12]。五百籏頭眞(防衛大学校長)は猪木への追悼文で「自衛隊のような国を守る実力組織には、右の国家主義的な極論に弱いところがある。それだけに作家の三島由紀夫が自衛隊員にクーデターを呼びかけ、割腹自殺した事件は不気味であった。その時、先生は朗々と三島の主張の誤りを論じて、自衛隊を感染から守った」と述べている[13]。
- 事件のとき防大4年生だった田母神俊雄(元航空幕僚長)は、2008年にテレビ番組でノンポリだったから事件に心を動かされなかったと述べている[14]。2018年のインタビューでは「三島由紀夫という作家は、非常に感性が鋭くて、ものがよく見えている。だから、三島の言動は面白いなと思って見てはいましたけどね。その感は、私が年をとるにつれて深まっている気がします。」と述べている。また猪木学校長の事件への評価にショックを受けたとし、「事件が起こるまで猪木さんは三島を絶賛していたはずなんです。私たち学生の前でもそういう話をしていたように思います。ところが、あの事件後、評価がコロッと変わったんです。三島由紀夫はとんでもないやつだ、と。私は学生ながらに「学校長、人ってそんなに変われるもんですか」と思ってしまいましたよ。あれは、けっこうショッキングでした。」と述べている[15]。
- 中核派書記長の本多延嘉は、東京拘置所に収容されていたときに弁護士が三島事件について「体制派でも死ねる人がいるとは」と言うと、「いえ、わたくし達には今すぐにでも七十人、八十人いっしょに死ねる人がいますよ」とごく普通にあっさりいったという[16]。
出典[編集]
- ↑ 以下の位置に戻る: a b 鈴木邦男「保阪正康『三島由紀夫と楯の会事件』解説」筑摩書房
- ↑ 佐藤忠男「三島事件とその報道」、江藤文夫、鶴見俊輔、山本明編集委員『講座・コミュニケーション 5 事件と報道』研究社出版、1972年、295-296頁
- ↑ 保阪正康『憂国の論理――三島由紀夫と楯の会事件』講談社、1980年、236頁
- ↑ 鈴木邦男『新右翼〔最終章〕――民族派の歴史と現在』彩流社、2023年、34頁
- ↑ 志水速雄『政治と反政治のあいだ――理想・暴力そして言葉』ダイヤモンド社、1971年、186頁
- ↑ 鈴木邦男『新右翼〔最終章〕――民族派の歴史と現在』彩流社、2023年、36-39頁
- ↑ 鈴木邦男『新右翼〔最終章〕――民族派の歴史と現在』彩流社、2023年、32、41頁
- ↑ 森田必勝氏追悼のシンポで中島岳志さんと会った|鈴木邦男の愛国問答 マガジン9、2013年11月27日
- ↑ 義挙五十三年 三島由紀夫・森田必勝両烈士追悼恢弘祭が斎行される! レコンキスタOnline、2023年12月18日
- ↑ 猪木正道「三島「檄」に関する訓示」『猪木正道著作集 第5巻 国を守る』力富書房、1985年、364-367頁
- ↑ 西原正「第五巻・解説」『猪木正道著作集 第5巻 国を守る』力富書房、1985年、502頁
- ↑ 上丸洋一『『諸君!』『正論』の研究――保守言論はどう変容してきたか』岩波書店、2011年
- ↑ 猪木正道は軍国主義にもマルクス主義にも異議を唱えた 文春写真館 - 本の話、2013年1月15日
- ↑ 私の「出生の秘密」と田母神論文 鈴木邦男をぶっとばせ!、2008年12月8日
- ↑ (3ページ目)あれから10年 田母神俊雄が語る「田母神論文事件とは何だったのか?」 文春オンライン、2018年10月19日
- ↑ 小嵐九八郎『蜂起には至らず――新左翼死人列伝』講談社文庫、2007年、246頁
外部リンク[編集]
- 楯の会事件(三島事件)とは - 福岡黎明社