ガラシャ夫人の碑
ナビゲーションに移動
検索に移動
ガラシャ夫人の碑(ガラシャふじんのひ)とは、京都府京丹後市弥栄町味土野に存在する石碑である。
概要[編集]
明智光秀の娘・玉は主君・織田信長の仲介を受けて細川藤孝の長男・細川忠興と結婚した。しかし天正10年(1582年)6月の本能寺の変で光秀が信長を討つという大事件を起こすと、玉は忠興によって味土野に幽閉された。光秀は羽柴秀吉に討たれ、その後の3年間にわたって玉は幽閉生活を送るが、天正14年(1586年)になって秀吉の命令で忠興と復縁を許された。天正15年(1587年)に玉はキリスト教の洗礼を受けて、ガラシャの洗礼名を受けた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い前夜、西軍の石田三成は東軍に属した敵大名を脅迫するため、大坂玉造の大名屋敷を襲撃して人質を捕縛しようとしたが、ガラシャはこれを承知せずに屋敷に火を放って自殺した。
本能寺のために幽閉された標高400メートルの地に、現在は1基のガラシャの石碑が存在する。ここはハイキングにも適しており、紅葉にも恵まれている。