アレクセイ・アナーニン

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1914年ごろ撮影

アレクセイ・パブロビッチ・アナーニン(Alexei Pavlovich Ananyin、ロシア語:Алексей Павлович Ананьин1892年3月8日 - 1952年もしくは1953年ごろ)は、ロシア帝国の軍人[1]

生涯[編集]

ヴォログダ県(現在のヴォログダ州ウスチュグ地区 ()ウスチュジナに住むペリシテ人一家の子として生まれる。

1900年、ウスチュジナの4年制学校に入学し、1907年に卒業する。

1914年には兵役で軍に入隊し、第一次世界大戦時は第310歩兵連隊民兵として従軍し、1915年から第426ポネヴェージ歩兵連隊[2]下士官として勤務し始める。

2月革命後の1917年9月エストニアエゼル湖周辺でドイツ軍捕虜となり、ドイツ本土に連行される。

1918年3月ブレスト=リトフスク条約締結後、彼は解放され、故郷に帰還後、1918年から1922年までウスチュグ地区の軍事登録及び赤軍入隊事務所の事務員として勤務し、同年1月に解雇される。

1925年まではパルプ工場の代理人として、原材料の調達を担当する。

1930年代初頭には家族と共にレニングラードパルゴロヴォ ()に移住し、中頃にはヤロスラヴリに引っ越す。

晩年は重病に陥った為、1952年もしくは1953年ごろに死去し、遺体は同地に埋葬される[3]

逸話[編集]

ドイツ軍の捕虜だった時、ソビエト政権に反対し、白軍に参加するようにと脅したが、これを拒否している。

家族[編集]

妻のオリガと3人の子供が居る[4]

脚注[編集]

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