アラビア式裁判
アラビア式裁判(アラビアしきさいばん)とは、アラブ諸国等のイスラム圏で行われる裁判のことである。
概要[編集]
日本の裁判のような大袈裟で時間の掛かる裁判ではなく、社会経験の豊富な長老クラスの人物や宗教家などが争いを仲裁する程度のものが殆どで、民事と刑事を分割せずに行われる。費用も掛からない。
判決に納得できなければ上訴も可能である。上訴審は、より地位の高い者が裁く。
アラビア式裁判を行うアラブ諸国では、簡単に裁判を起こすことができ、判決も即座に出るので、商売上のトラブルや近所同士の争い、仕事上の問題、夫婦喧嘩や兄弟喧嘩まで、すぐに解決するのでストレスが最小限で済む。
判例[編集]
テレビ放送された実例[編集]
- 土地の売買に関するトラブルで、相手が土地の代金を払ってくれないというもの。代金の支払いが命じられ、支払わずにいた者の武器が没収された。代金の支払いを命じるというのは当然の判決であり、しかも、武器を没収することで、訴えられて敗訴した者が訴えた者に危害を加えることも防止するという優れた判決である。
- 夫婦喧嘩に関するトラブルで、夫婦喧嘩の際に夫が「離婚だ」と三回言ったが、本当に離婚したいわけではないというもの。イスラム教の掟によれば夫婦喧嘩で「離婚だ」という言葉が三回以上出たら離婚が成立する。宗教家は「カッとして言ったのならば離婚する必要はない」と回答し、厳格過ぎるイスラム教の掟を文字通りに守ることよりも、家庭の崩壊を防ぐことを優先した。宗教家は更に「貧しい人に食事をさせてあげなさい。そうすれば神は許してくださるだろう」と助言した。
サラリーマン金太郎96話における架空のアラビア式裁判の例[編集]
- 主人公の金太郎が赴いた架空のイスラム教国で、ある村の村長が、村の泉の水が渇れてしまったという窮状を第三王子に訴えたというもの。王子は村に給水車をすぐに送ることを約束し、村に水を引くことを考えると言った。
- 同じく金太郎が同席した、第三王子による裁判で、 結婚したばかりの夫婦の争い。夫が「妻が処女でなかった」と主張しているというもの。夫婦の話を訊くうちに、夫が結納金をまだ全て払っておらず、残りを払わずに済ませようと「妻が処女でなかった」と嘘を言っているのだということが明らかになり、王子は夫に結納金を全て払うように命じた。結納金の支払いを求める裁判ではないのに結納金の支払いが命じられた点は注目に値する。
- 王子はその日、17件の問題を裁いた。また国民は、正しい裁きを行う第三王子のことを深く敬愛しており、兄が二人いたにも関わらず次期の国王に選ばれることになる。
その他[編集]
アメリカの報道機関は、世論を反アラブ化するために常軌を逸した特異な判例ばかり大袈裟に報道する傾向があるが、通常のアラビア式裁判はアメリカの裁判よりも常識的であり、その判決の多くは人間が持って生まれた正義感を反映したものである。
真相を究明するつもりなどなく、自分の役割を演じるだけの検察官や弁護人の主張よりも、裁判官の裁量が優先される。
婦女暴行魔などがアラビア式裁判に掛けられたら、即座に斬首刑が言い渡され、刑も即座に執行される。被告が必死で言い訳すると刑罰が軽くなり銃殺刑で済む場合もある。銃殺刑にはカラシニコフ突撃銃を使うのがアラブの伝統である。
イスラム圏では、人間関係のトラブルなどの人為的に解決可能な問題はアラビア式裁判で解決し、どうすることもできない問題はインシャラーと考えて諦める。
旧約聖書を読むと、アラビア式裁判が本来はユダヤ教の習慣であったことがわかる。最初は預言者モーセが全ての問題を裁いていたが、その結果、モーセは預言者としての仕事に支障を来してしまった。モーセは妻の父親の提案により、多数の裁判官を立てて小さな事件の裁きを任せ、重大な事件のみを裁くことにした。(出エジプト記18:14~27)
ダビデ王の時代には王が最高裁長官となっていた。ダビデの息子のソロモン王が優れた裁判官であったことは有名である。(Ⅰ列王記3:3~28)
初期のキリスト教にもそれは受け継がれており、新約聖書の使徒の働き6章や第1コリント6章にはその記述がある。ユダヤ教やキリスト教においては、この習慣は廃れてしまったのだが、後から成立したイスラム教の中には今でも確り残っているわけである。
日本では、アラビア式裁判で速やかに問題を解決することをしていない。日本では裁判に何年も掛かる上に裁判官は常識知らず。正しい裁判が行われることなど期待できない。市町村の全てに裁判所があるわけではない。故に、ヤクザに頼んで問題を解決して貰うのである。ヤクザ裁判よりもアラビア式裁判の方が遥かに良いのではないだろうか?
それから妥当な判決を出すことのできない者を裁判官にするべきではない。