左門岳
左門岳(さもんだけ)は、岐阜県と福井県境、越美山地を形成する山の一つ。
概要[編集]
左門岳は越美山地を形成する山の一つ。越美産地の大部分は1,000メートル内外の高さが多く定高性がある山が多い中能郷白山の1617.3メートル、屏風山の1354.2メートル等には及ばないが標高1,224メートルの高さを誇る。
越美山地は加越山地とあわせて両白山地と呼ばれる。加越山地は山頂が福井県側にある山を指し、越美山地は山頂が岐阜県側にあるものを指し示す。このため、山体自体は福井県と岐阜県にまたがっている山も多く登山ルートも福井県と岐阜県の両側から登頂出来る山も少なくない。後述するが、左門岳周辺の村落名を福井県側の住人が知っていたことから左門岳を越えて福井県と岐阜県が交流があった可能性が高い。
近隣には平家岳(山頂福井県)、明神山(山頂岐阜県)がある。東側は関市板取を流れる板取川の水源[2]である。西側は根尾東谷川の水源である[3]。登山口手前に揚水発電所下池(上大須ダム)がある。
左門岳東側に降った雨は左門岳を源流とする板取川経由で長良川に入り国営木曽三川公園の先で揖斐川と合流し伊勢湾に流れ込み、また同じく左門岳西側に降った雨は左門岳を源流とする根尾東谷川経由根尾川経由で揖斐川を経て長良川を合流して伊勢湾に注がれる[4]。
地質[編集]
本巣市根尾地区と関市板取地区境界から東方は花崗閃緑岩や流紋岩類の深成岩や噴出岩類から形成されている[5]。左門岳付近は根尾村史によると、古生代二畳紀層「左門岳累層[5]」に分類される。左門岳累層は岩相により下部から、大河原互層、魚坂峠砂岩層、久沢粘板岩層、迫谷砂岩層に区分できる[5]。
左門岳累層はかつて中生代のジュラ紀から白亜紀に及ぶ地層として扱われていた。時代を決定するための化石は出土していないが、福井県側で輝緑凝灰岩や結晶質石灰岩をはさんでおり、またチャートを挟有することは、古生層であることを証明するものであり、黒色粘板岩礫を含む礫岩層のあることは、異常堆積の産物で、この事実から、左門岳累層は二畳紀中期から後期と推定される[6]。
地理[編集]
全般に、旧根尾村の大部分を覆う美濃越前山地は満壮年的に浸食を受けて、急傾斜大起伏の山地をなしているが、その高度は能郷白山の1617.3メートル、屏風山の1354.2メートルを除くと、大部分は1,000メートル内外の高さが多く定高性を示している[7]。
しかし上大須ダムが建設されるまでは、道らしい道が無く谷を遡行し藪をかき分けて登った秘境の山[8]であった。深田久弥の日本の名山の基準に遠く及びそうにない山と『奥美濃』[9]には記載されているが、登山道も完備していないだけで無くルート途中も急峻な部分や危険な部分があり、今でも秘境の山であることに変わりは無い。
名称について[編集]
地元では名前の由来は山の持ち主が太左衛門であることから、左門岳となったといわれている[9][10]。福井県側では名前についての異説がある。福井県側では板取村・越田土(おったど)・越波(おっぱ)の3つの村の山という事で三村岳と呼ばれていたが、明治43年陸地測量部の人夫として案内に出た村人の発音が不明瞭であったため、三門岳(さんもんだけ)となり、後に左門岳になったといわれている(「山々のルーツ」210-211頁より引用)[11]。
登山[編集]
沢筋の登路なので梅雨時期と台風の後は入山出来ない。ヤブに覆われており夏期登山は見晴らしがきかないため推奨されていない。春先から梅雨時期前(4月、5月)、台風シーズン後の晩秋(10月、11月)が登山シーズとなる。岐阜県でも有数の豪雪地帯で有り、2〜3メートルの積雪に覆われるので冬期の登山には不向きである[8]。また、上大須ダムによってできた人造湖の周りは周遊道になっているが、右岸明神山側が土砂崩れを起こしており、湖の東側は完全通行止めとなっている。左岸は車両通行止めであるが、徒歩での入山は可能である。しかし落石に注意が必要。
登山口までのアクセス[編集]
東海北陸自動車道美濃インターチェンジをおりて左折。県道94号線を直進。国道418号線に入り右折。根尾東板谷で県道255号線に入り上大須ダムに向かう。上大須ダム近辺は道幅が狭く落石に注意が必要[8]。
登山ルート[編集]
上大須ダムの駐車場に車を止めて、上大須ダムを渡り上大須ダム西側の遊歩道を歩くと、上大須ダム湖の奥が登山口の根尾東口の駐車場広場に出る。 広場から丸太の橋を渡り左岸を行くと資材運搬用モノレール(現在は使われていない)が現れる。モノレールは右の沢に向かって上がっていく。登山道は左の沢に向かって上がっていく。「左門岳左の谷」と岩に朱書きされている地点に出る。ここで沢の右岸に渡る。数回渡り返しながら登っていくが途中が危険でロープが張ってある場所等がある。ヘルメットがかけられ下にオイル缶が置かれている場所に出る。最後の沢を右岸に渡り沢に沿って登ると尾根に出る。尾根は道幅が広いが草が生い茂っている。山頂は眺望がきかない[12]。
周辺の山[編集]
山名 | 標高(メートル m) | 三角点等級 基準点名 |
左門岳からの 方角 |
左門岳からの 距離 |
備考 |
---|---|---|---|---|---|
御嶽山 | 3,067m | 一等 「御嶽山」 |
東北東 | 56.7km | 日本百名山の一つ |
平家岳 | 1,441m | 二等 「平家岳」 |
北東 | 3.4km | 平家落武者の里とも言われている |
能郷白山 | 1,617m | 一等 「能郷白山」 |
西北西 | 9.0km | 越美山地の最高峰。「日本二百名山」の一つ |
左門岳 | 1,224m | 三等「左門岳」 | 中心 | 0 | 板取川水源 根尾川東支流源流 |
金華山 | 328m | 二等 「金華山」 |
南南東 | 24.3km | 頂上付近に岐阜城 |
金糞岳 | 1,317m | なし | 南東 | 24.3km | 滋賀県で2番目に高い山 一番は伊吹山 |
源流の河川[編集]
- 板取川(長良川の支流)
- 根尾東谷川(根尾川の支流)
左門岳の風景[編集]
参考文献[編集]
- 根尾村 『根尾村村史』 根尾村、1980年8月31日、1st。
- ぎふ百山を登る会 『ぎふ百山を登る』 ぎふ百山を登る会、2006年1月11日、1st。ISBN 4-87797-105-X。
- 山葵会 『奥美濃』 山葵会、1975年5月3日、1st。
- 安藤忠夫 『奥美濃がたり』 安藤忠夫、2002年5月15日、1st。
- 島田靖 堀居啓介 『岐阜県の山 新・分県登山ガイド20』 山と渓谷社、2005年11月15日、1st。ISBN 4-635-02320-6。
- 日本山岳会 東海支部 『東海・北陸の200秀山』 中日新聞社、2009年10月20日、1st。ISBN 978-4-8062-0598-2。
脚注[編集]
- ↑ 根尾村 『根尾村村史』 根尾村、1980年8月31日、1st、3頁。
- ↑ 島田靖 堀居啓介 『岐阜県の山 新・分県登山ガイド20』 山と渓谷社、2005年11月15日、1st、106頁。ISBN 4-635-02320-6。
- ↑ ぎふ百山を登る会 『ぎふ百山を登る』、2006年1月11日、1st、105頁。ISBN 4-87797-105-X。
- ↑ “一級河川木曽川水系 長良川圏域河川整備計画”. 岐阜県. p. 1. 2016年8月10日確認。
- ↑ a b c 根尾村 『根尾村史』 根尾村、1975年8月31日、1st、5頁。
- ↑ 根尾村 『根尾村史』 根尾村、1975年8月31日、1st、5-6頁。
- ↑ 根尾村 『根尾村史』 根尾村、1975年8月31日、1st、13頁。
- ↑ a b c 島田靖 堀居啓介 『岐阜県の山 新・分県登山ガイド20』 山と渓谷社、2005年11月15日、1st、106-107頁。ISBN 4-635-02320-6。
- ↑ a b 山葵会 『奥美濃』 山葵会、1975年5月3日、1st、197-198頁。
- ↑ 『奥美濃』より該当箇所を引用
:「 一 札 の 事
- 此度私儀心得違仕御禁木の栃木を以て車にいたしかけ候処御定法を以て各々方より
- 御差留被成候に付相止申候於以後ヶ様の不埒堅く仕間敷候為後々年書印一札仍如件
- 文政九丙戌年三月
- 源左衛門 印
- 大須山木地曳
- 太 左 衛 門 殿 」
- ↑ 上杉喜寿 『山々のルーツ』 福井新聞社、1980年1月20日、1st、210-211頁。
- ↑ 日本山岳会 東海支部 『東海・北陸の200秀山』 中日新聞社、2009年10月20日、1st、124-125頁。ISBN 978-4-8062-0598-2。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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