三浦半島
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地理[編集]
神奈川県南東部に位置しており、東京湾と相模湾を隔てる役割を担っている。主に横浜市磯子区から三浦市最南端の城ヶ島までのエリアで、概ね旧相模国三浦郡全域と鎌倉郡南部の地域を指す。
半島東部にある横須賀市や西部の逗子・鎌倉両市を中心に人口密集地帯となっている。
地形[編集]
半島内は中心部を中心に山岳地帯が連なっており、海岸沿いまで山がせり出している部分も多い。
歴史[編集]
三浦半島には今から約25,000年前に当たる旧石器時代から人類が定住していたと文献には残されており、三浦市の諸磯貝塚や横須賀市の夏島貝塚・茅山貝塚には実際の居住跡を見ることができる。
その後、しばらく三浦半島に関する記述は途絶えることになるが、中世になると源頼朝公の家臣である三浦氏の支配下になるが、1247年に発生した宝治合戦によって同氏に滅ばされることになる。同氏に変わって小田原に本拠地を置いていた北条氏の管轄下になる。戦国時代には房総半島に拠点を置いていた里見氏との争いが続いていたともされている。
江戸時代になるとヤン・ヨーステンおよびウィリアム・アダムスによって領地が支配されるようになる。その後、江戸時代末期になると日本全国に国外の船が次々と来航するようになり、みかねた江戸幕府は1810年に三浦半島沿岸の警備を強化することとなる。しかし、1853年のペリーらが浦賀に来航し開国要求を行うと、紆余曲折ありながらも翌1854年に日本は日米和親条約を結び開国することとなった。
明治時代になってからは鎮守府・製鉄所がおかれ軍事要所の一端を担うようになる。終戦後、横須賀市の一部を中心に米軍基地になりより一層の「軍事都市」としての性格を担っている。
施設[編集]
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