1946年のセネタースのユニフォーム

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1946年のセネタースのユニフォーム1945年に結成されたセネタース(現:北海道日本ハムファイターズ)のユニフォーム。物質不足を反映して阪急軍のお下がりを活用した通称お下がりユニフォームの事を指す。翌年チームが東京急行電鉄に買収され「東急フライヤーズ」と改称した為わずか1年でチーム名と運命を共にした短命ユニフォームである。

デザイン[編集]

阪急軍からのお下がりであるためデザインは阪急軍のものと同じ(袖・ズボン・カッターシャツラインが白で後は黒。ストッキングは白で黒の2本線のバージョン)。白地にSのマークは左胸のものと左肩のものが存在していた。背番号も白。

概要[編集]

1945年8月15日ポツダム宣言を受諾して降伏すると同年の11月6日には日本野球連盟が復活を表明。11月23日には東西対抗戦を後楽園球場にて開催するなど奇跡的な復活を見せているがこのゲームでデビューした大下弘が着ていたのが当該ユニフォームである。

実は復活を表明した日大阪タイガース東京ジャイアンツ阪急軍産業軍朝日軍近畿日本軍の首脳が話し合い1943年に消滅した東京セネタース(1936年設立、4年後翼軍と改称。1942年名古屋金鯱軍と合併して大洋軍。翌年西鉄軍と改称して解散)の関係者が中心となって新たに設立したセネタースの連盟加入を承認しているが、かつて存在していた球団が改めて結成されたとあらば新しいユニフォームの購入も容易に働く。実際チームは阪急軍から戦時中隠匿していたユニフォームの一部を分けてもらってユニフォームとして採用している。ただし阪急を示すHのマークをはずしセネタースを示すSのマークをつけてプレーしていたのである。

新生セネタースの成績は8球団中の5位。大下弘が戦後初のホームラン王に輝き白木義一郎が30勝で最多勝利投手に輝くが個人経営ということがネックとなりシーズンオフチームは東京急行電鉄(当時は大東急)に買収され東急ベースボール倶楽部、チーム名「東急フライヤーズ」と改称する。こうしてお下がりユニフォームはわずか1年でチーム名と運命を共にしている。