小田急4000形電車 (初代)

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小田急4000形電車 (初代)(おだきゅう4000がたでんしゃ)とは、かつて小田急電鉄に在籍していた通勤型車両の1形式。小田急最後の吊り掛け駆動車であったが、高性能化もなされている。

概要[編集]

1960年代に入り、間接非自動制御を搭載していた通称HB車は車体長16mの2扉車で、輸送密度が高くなるにつれて扱いづらい車両となっていった。しかし、主要機器が更新されていたことから使用可能な部品を流用したうえで当時増備が進んでいた2600形に準じた大型車体を新造して準新車を製造することにした。

構造[編集]

車体は2600形に準じた20m級4扉車体となっており、2灯の白熱灯の前照灯を備え、通常は片側点灯を行う。窓も2段下降窓で、内装も2600形に準ずる。

主要機器のうち、流用されたのはほとんど主電動機のみで、すべて端子電圧750V・出力93.3kWの直巻電動機であるMB-146系列となっている。

主制御器は電動カム軸式のABFで、8個のモーターを一括制御する。

ブレーキ方式は4008×3までが流用品のAMMR-L電磁自動空気ブレーキであったが、4009×3以降はHSC電磁直通ブレーキとなった。発電ブレーキは省略されている。

台車は1970年までの22本66両がパイオニアIII台車のPIII-706系を履き、それ以降についてはTc車のPIII-706T形台車を軸ばね式のTS-814を製造して取り替え、小改造でPIII-706M形に編入し、新造された電動車に転用。それでもパイオニアIII台車は4両分不足したため、その分は軸ばね式のTS-818を製造して補った。

沿革[編集]

運用開始当初[編集]

当初は3両編成を組成したが、収容力は450人分にも及び、大幅な輸送改善が図られた。自動空気ブレーキの車両については1969年までにHSC電磁直通ブレーキに取り替えられている。また、1969年以降の増備車についてはABF車の1600形から機器を流用して製造されている。

1800形との併結[編集]

1969年には8両編成の運用が開始されることになったが、このとき8両編成を組める大型車が1800形5000形のみであった。しかも1800形については吊り掛け駆動であったが、1967年から1969年にかけて修繕工事が行われており、ブレーキ方式もHSCに変更されており、理論上は問題ないことがわかった。

しかし、実際に併結運用を開始して4年後の1973年前半に2回も脱線事故を起こし、急遽併結運用は取りやめとなったが、併結運用を行っている運用の代替として14本を5連7本に暫定的に組み替え、Tc車7両を休車とした。

それでも車両が不足することから1974年より中間電動車の増備が開始され、1976年までに13本が5連となり、暫定的な5連は解消している。こうして全車が出そろった。これらの機器は2100形などからの流用となった。

なお、この事故について、小田急に勤めていた生方良雄は後に「4000形のパイオニアIII台車とばねの固い1800形のDT13形台車の相性が悪かったことが真実だと思う」という見解を示した。また、この事故を重く受け止めた南海では1974年の6200系登場以降、2009年の6100系全滅[1]までパイオニアIII台車の車両とバネの固いミンデンドイツ式台車の車両の連結を決して行わない運用構成が組まれていた。

更新工事[編集]

1977年に入ると、4000形の5連を2本組み合わせた10両編成の急行も見られるようになったが、冷房化については95km/hの最高速度と、車軸の強度の関係から無理に近い状態となっていた。しかし、小田急の通勤車では冷房車がすでに当たり前となっており冷房化が本格的に検討されるようになった。

そこで、廃車となる小田急最後の中型車2400形から主電動機のMB-3039-A[2]を流用し、出力向上と高性能化が図られた。制御段数も増やされ、駆動方式もWNドライブとなり、電動車の台車については新たに軸ばね式のディスクブレーキ付き台車であるTS-826形を新造した。ディスクブレーキはパイオニアIII台車からの流用で、ブレーキ装置を失ったパイオニアIII台車はすべて廃棄されている。

対して付随車にはTS-814形を流用したが、4259×6の編成と4260×6の編成のみ元電動車用のTS-818形を流用。これはこの台車自体がカルダン駆動用のモーターの装荷に対応していなかったためと推定される。また、この過程でTS-814形台車が10両分不足したため新造されている。

同時に冷房化も行われたが、発電ブレーキについては流用した主電動機の容量が比較的小さかったためか搭載されなかった[3]

編成構成の変化は以下のようになった。

  • 5連2本を6連と4連に変更×6 (下記以外すべて)
  • 5連と3連を4連2本に変更×1 (4012×5および4016×3→4057, 4058×4が該当)
  • 3連2本を6連1本に変更×4 (4014, 4015および4017~4022×3→4254および4256~4258×6が該当)

こうして1988年までに更新工事を終え、4連8本と6連10本に整理され、吊り掛け駆動方式が小田急から全滅した。

なお、未更新車消滅寸前の同年9月22日に車両故障が発生し、突発的に8000形4連に本系列の未更新車3連2本を接続した10連が運行されたが、これは吊り掛け駆動方式とカルダン駆動方式の車両の併結運用としては小田急史上最初で最後のものとなり、これが未更新車としての最後の運用ともなった。

その後[編集]

本系列は電気ブレーキをもたず、窓も2段下降窓である以上、箱根登山鉄道箱根登山線の運用に就くことは原則なかったが、6連は小田急線全線で見かけるようになった。4連についても江ノ島線の運用が主体となっていたが、それ以外の小田急線でも遭遇する機会は少なからず存在した。なお、地下鉄への乗り入れも最後まで行われなかった他、4連2本の8連運用はほとんど見かけなかった。

2003年に3000形の投入が開始されると、なんとブレーキ方式が全くもって異なる3000形との併結も開始され、しかも比較的安定した走りを見せたが[4]、それと同時に淘汰も始まり、2004年12月に引退。さよなら運転やお別れイベントは一切行われず、2005年1月までにひっそり寂しく全車が廃車解体されて形式消滅した。

脚注[編集]

  1. 廃車とはならず、6300系に形式変更される形で全滅した。このため、全と書かない。
  2. 端子電圧375V時、定格出力120kW
  3. 比較として挙げておくと、2600形や初代5000形の主電動機出力は135kWであった。一方2400形時代は発電ブレーキ常用であったことを踏まえると制御装置の改修を見送っただけという見方もできる。
  4. 3000形は回生ブレーキ併用の電気指令式ブレーキで、純電気ブレーキも併設していた。

関連項目[編集]