鳩摩羅什
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鳩摩 羅什(くま らじゅう、350年 - 409年)は、中国の五胡十六国時代の僧侶。
生涯[編集]
鳩摩羅什は亀茲に逃れてきた亡命インド貴族と亀茲国王の妹との間に生まれた子で、母親が熱心な仏教徒であったため母に従って25年にわたりカシミールやカシュガルなど各地に留学して[1]早くから仏教を学んで亀茲で大乗仏教を宣揚していた[2]。西域出身の僧侶としてその名は中国にも知られるほど高名だったため、前秦の苻堅は部下の呂光に西域遠征を命じた際、釈道安の進言を容れて呂光に鳩摩羅什の身柄を確保するように命じている[2]。384年、亀茲は呂光により制圧されて鳩摩羅什も身柄を呂光に捕らえられた[2]。しかしこの前年に苻堅が淝水の戦いで大敗して前秦は実質滅亡したため、呂光は後涼を建国して自立することになり、鳩摩羅什も後涼支配下の涼州に留まることになった[2]。この間、仏教に熱心な後秦の姚興からたびたび鳩摩羅什の身柄を譲るように求められたが、後涼は拒否した[3]。
401年9月に後秦の姚興が勢力を伸張すると、鳩摩羅什は姚興の招聘を受けて首都の長安に入り、国師の待遇を受けた[2][3]。姚興が熱心な仏教信者であったため鳩摩羅什は資金・人員・設備と十分なほどの庇護を姚興から受けて一大国家プロジェクトとして仏典の翻訳を行なった[3]。409年に鳩摩羅什は死去するが、その間の8年に及んだ仏典の翻訳は35部294巻[1]、門下は3000人に及んだ[3]。
釈道安、仏図澄と並ぶ中国仏教の発展に大きな役割を果たした一人として評価される[3]。あるいは鳩摩羅什に訳された法華経、阿弥陀経、大品般若経などは後世の東アジア仏教に計り知れない影響を与えていることから中国仏教最大の貢献者とも言われる[1]。