後秦
後秦(こうしん、384年4月 - 417年8月)は、中国の五胡十六国時代に羌族の族長・姚萇が前秦から自立することによって建てられた王朝である。首都は最初は馬牧だったが、386年に長安に移された[1]。国号は最初秦であったが、後に大秦と改められた[2]。後秦は同時代に秦を称した国家が複数あるため区別する歴史用語である。
歴史[編集]
羌族の族長・姚氏は姚弋仲の時代にその基礎が固められた[3]。永嘉の乱で西晋が滅亡した際、姚弋仲は数万人の配下を率いて現在の陝西省に移動し、323年に前趙の劉曜が現在の甘粛省東部に進出すると帰順した[3]。329年に劉曜が後趙の石勒に滅ぼされて関中が後趙領になると石勒の支配下に入った[4]。333年に石勒が死去すると、石虎に従って数万人の部族を率いて清河(現在の河北省清河県)に移住する[4]。これは姚弋仲が泰州や雍州の豪族を関東に移すべきと後趙に求めていたのが受け入れられた結果である[4]。姚弋仲は長命で、351年4月の後趙滅亡までその支配下にあった[4]。後趙滅亡後は後趙から内部分裂して自立した冉魏に従わず、11月に東晋に従った[4]。
姚弋仲は352年3月に亡くなり、息子の姚襄が跡を継いで6万戸を率いて清河を離れて南下するが、前秦軍の攻撃を受けて3万戸を失った[4]。姚襄は東晋を頼り、東晋の揚州刺史・殷浩の北伐に従うが殷浩と対立して354年3月に前燕に帰順する[4]。355年4月、姚襄は大将軍・大単于を自称して自立し、故郷である関中への帰還を行なおうとしたが、357年5月に前秦の苻堅に三原(現在の陝西省三原県)で敗れて戦死し、弟の姚萇が跡を継いで前秦に降り、前秦の将軍として前涼攻撃や東晋領の襄陽攻撃に参加した[4]。
383年の淝水の戦いで前秦軍が東晋軍に大敗すると、姚萇は最初は苻堅の配下に留まってその命令を受けて西燕討伐に赴いたが失敗して苻堅の怒りに触れることを恐れて384年4月に馬牧に逃亡し、ここで大単于・万年秦王を称して自立した[4]。これが後秦の建国である[4]。後秦政権には羌族の他、天水(現在の甘粛省天水市)や南安から漢人豪族が、さらに匈奴が加わって政権構築が成された[5]。姚萇は西燕と連携して北地で勢力を増強し、新平や安定などで支配を確立していった[2]。385年7月、姚萇は苻堅が西燕に追われて長安から脱出して五将山に入ると捕縛し、8月に殺してしまった[2]。386年3月、西燕が長安を捨てて東に赴いたため、姚萇は空白になった長安を奪取してここで皇帝に即位し、国号を大秦として長安を常安と改名した[2]。こうして後秦を事実上打ち立てた姚萇であるが、苻堅を殺された前秦残党は各地で激しい反乱を展開し、後秦の支配領域は関中に限定された[2]。そして393年12月に姚萇が苻堅の亡霊に取り付かれて半ば狂死するまで、前秦残党の抵抗を鎮圧することはかなわなかった[2]。
姚萇の崩御の際、長男の姚興は始平(現在の陝西省興平市)で前秦残党の苻登と交戦中であったため、姚萇の喪を隠して戦い、漢人の活躍で苻登を西に敗走させた[2]。394年5月、姚興は始平において第2代皇帝として即位し、7月に現在の甘粛省平涼市において苻登を殺し、陝西省西部を平定して甘粛省東部への進出の道を開いた[2]。400年7月、姚興は叔父の姚碩徳に西秦を攻撃させ、西秦を服属させた[2]。401年7月には姚碩徳に後涼を攻撃させ、9月に服属させた[2]。占領地域には漢人の王尚を涼州刺史として直接支配に乗り出し、この勢いの前に西涼や南涼、北涼などは次々と服属することを表明し、後秦は涼州での覇権を確立した[6]。
東方においても姚興は積極的に進出し、396年に河東を得て、399年7月には弟の姚崇や楊仏嵩を東晋が支配する洛陽に派遣して10月に陥落させ、さらに漢水以北の地域を獲得した[6]。また同じ頃に東晋で桓玄のクーデターが起こった結果、反桓玄勢力の中には後秦に帰順する者も多くあり、この結果後秦はこの時点で最盛期を迎え、人口は300万人に達した[6]。
しかし後秦の東北ではこの頃に北魏の道武帝が進出しており、姚興はこれを排除するために402年5月に弟の姚平を派遣して北魏領の平陽を攻撃させたが[6]、北魏は道武帝自ら親征して平陽南部の柴壁で姚平軍を包囲した(柴壁の戦い)[7]。これに対して姚興も姚平を助けるために親征したが救出できず、姚平軍は全滅した[7]。これにより北魏と後秦の力関係は完全に定まり、以後後秦は徐々に衰退の兆しを見せてゆく[7]。姚興は挽回するために北魏と407年に関係を改善するが、この年の6月に後秦の安北将軍として朔方にいた赫連勃勃が高平(現在の寧夏回族自治区固原県)を襲撃して自立し、夏を建国したために後秦はオルドスから陝西省北部の領土を失った[7]。409年7月には西秦が自立し、涼州における覇権も失った[7]。しかもこの際、姚興には夏や西秦を討伐するだけの力が無く、その自立を逆に追認するしかなかった[7]。
以後、後秦は夏の圧力、後仇池の反乱、劉裕率いる東晋軍の侵攻などでますます衰退[7]。しかも416年2月には姚興が崩御し、長男の姚泓が跡を継いだが、これを機に姚泓の弟の姚宣や姚懿、甥の姚恢らが反乱を起こすなど既に後秦は内部から崩壊の道を歩みだしていた[7]。この後秦の大混乱を見て、北から夏の赫連勃勃が、南からは東晋の劉裕が後秦に対して大規模な侵攻を開始[7]。特に劉裕の侵攻はすさまじく、洛陽を奪回すると一気に西に進んで常安に向かい、417年8月に遂に常安を落とし、ここに後秦は滅亡した[7]。
姚泓は劉裕に捕縛され、東晋の首都・建康に送られて処刑され、後秦は完全に滅亡した[7]。
後秦の君主[編集]
元号[編集]
脚注[編集]
- ↑ 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P184
- ↑ a b c d e f g h i j 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P151
- ↑ a b 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P113
- ↑ a b c d e f g h i j 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P114
- ↑ 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P115
- ↑ a b c d 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P116
- ↑ a b c d e f g h i j k 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P117
- ↑ a b c d 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P175