釈道安

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釈 道安(しゃく どうあん、 314年 - 385年)は、五胡十六国時代の僧侶仏図澄弟子である[1]

生涯[編集]

道安は漢人で姓を衛と言った[1]。しかし出家すると衛を捨てて釈を名乗った[1]。これは僧侶は釈迦の弟子であるから釈を姓にすればいいとしたものであり、以後はこれが仏僧の呼称として踏襲されることになった[1]。道安は華北に遊学した際に仏図澄の弟子となるが、348年に図澄が、翌年に石虎崩御して後趙が内乱状態になると、華北から離れて転々とした後に華南に逃れて東晋の支配下にあった襄陽に移った[1]。『高僧伝』によると従来の呪術的仏教や格義的解釈の仏教学から進んで仏典そのものから直接仏教を理解することを目指し、また僧侶や尼の威儀行持の法を定め、天下の寺院はこれに倣った、とある。

379年2月前秦により襄陽が陥落すると、道安の名声を耳にしていた前秦の君主・苻堅により首都の長安に招かれた[1]。この時苻堅は「朕は10万の軍を用いて襄陽を取ったが、ただ一人半を得た」と述べたという[1]。一人が道安のことで、半人は歴史家の習鑿歯のことである[1]。道安は既に68歳の高齢だったが、苻堅からは政治顧問として遇され、さらに通例を破って苻堅から皇帝の車に同乗させる特権を与えて政策に対する意見も求められている[1]

前秦は前涼を既に滅ぼして涼州を支配下に置いていたため、外国僧が長安にたびたび往来し、西域の情報も多く得る所であった[1]。そのため道安は西域で高名な鳩摩羅什を招聘することを苻堅に勧め、苻堅もこれに応じて西域遠征に向かわせた部下の呂光に鳩摩羅什の身柄を確保するように命じていた[2]。道安は鳩摩羅什と共に仏教をさらに研究し、仏典を翻訳して統轄しようと考えていたという[2]

382年10月、苻堅が東晋征伐を図った際には反対した[3]。結局、翌年に起こった淝水の戦いで前秦軍は大敗して前秦が一気に衰退し滅亡の道をひた走る中、385年に道安は没した[2]。苻堅が同年に後秦姚萇に殺される直前のことだったという[2]

中国仏教の発展に寄与した僧侶として評価されている[2]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P167
  2. a b c d e 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P168
  3. 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P94

参考資料[編集]