仏図澄
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仏 図澄(ぶっとちょう、232年 - 348年12月)は中国の五胡十六国時代の西域からの渡来僧。
生涯[編集]
仏図澄は348年に117歳で死去したと伝わるから、逆算するなら232年、つまり三国時代の魏の明帝の時代に生まれたことになる。彼の若い頃の事跡はよくわからない。310年に西晋支配下の洛陽に至って仏法を広めようとしたというが[1]、この時でも既に79歳の高齢である。しかし当時の西晋では永嘉の乱が起こっており、そのため宣教活動は不可能だった[1]。洛陽が漢により落ちると、仏図澄は漢の実力者であった石勒に接近してその軍事・政治顧問となる[1]。『高僧伝』によると仏図澄が器に水を盛り、香を焚いて呪文を唱えるとたちまち青い蓮華が生じ、その光が目を輝かせたので、石勒は仏図澄を信服した、という。
仏図澄は医術・占い・祈祷などの術に優れていたため、石勒や石虎の信任を得て30年以上にわたり後趙の社会・政治で貢献した[1]。329年に前趙の劉曜により洛陽が包囲されたときに多くの重臣が持久戦を唱える中で仏図澄は大軍を出しての出撃論を唱え、石勒はこれを採用して劉曜を捕虜にした[1]。このため仏図澄の宣教活動は後趙から公認され、仏寺893箇所、門徒1万人近くにまで大々的に広まった[1]。さらに石虎により一般民衆の出家も公認され、この時代に仏教は大いに隆盛した[1]。
348年12月、石虎の死去する1年前に117歳という驚異的な高齢で没した[2]。