後涼

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後涼(こうりょう、386年10月 - 403年8月)は、中国五胡十六国時代族出身の呂光によって建てられた王朝である。首都姑臧[1]。国号は酒泉三河大涼と改められた[2]。同時代に涼を称する王朝が複数あるため、歴史的に後涼と区別される。

概要[編集]

後涼を建国した呂光は前秦の王朝を創設した苻氏と同じ氐族である。呂家は略陽(現在の甘粛省泰安県)の氐族で、呂婆楼は苻洪に従って後趙政権下で苻洪と共に現在の河南省滑県に移った。呂婆楼は前秦建国に貢献し、苻堅苻生に対して反乱を起こした際にはそれに協力し、苻堅政権下において司隷校尉や太尉を歴任した。呂婆楼の子の呂光も苻堅政権下において寧朔将軍・歩兵校尉などを歴任し、苻双苻洛の反乱鎮圧や前燕攻撃で大いに武功を立てた。

383年1月、苻堅の命令で呂光は都督西討諸軍事に任命されて西域遠征に出陣し、敦煌(現在の甘粛省敦煌市)などを経て384年7月に亀茲を制圧した。呂光はさらに西に遠征しようと考えたが、亀茲で保護した鳩摩羅什の勧めや遠征軍将兵からの帰国の要望もあり、これ以上の西進は断念して1年間亀茲に滞在した後、東に帰国の進路をとった。ところが呂光が留守の間に前秦は淝水の戦いで大敗して一気に統制力が弱体化して各地で反乱が起こっており、呂光もかつては前秦配下であった後秦配下の涼州刺史梁煕や高昌太守の楊翰の抵抗に遭うことになる。これに対して呂光は385年9月に楊翰を降伏させて高昌に入るが、この時にようやく淝水の戦いの大敗と長安の混乱を知った。呂光はさらに進軍して玉門(現在の甘粛省玉門市)に入り、梁煕を酒泉(現在の甘粛省酒泉市)で蹴散らして姑臧に入城し、ここで涼州刺史・西羌校尉を称して事実上自立した。386年9月に苻堅の死を知ると文昭皇帝と諡し、10月に太安と建元して酒泉公を称した。正式にはこれが後涼の建国である。

387年12月前涼の復興を企図していた張天錫の世子の張大豫が魏安(現在の甘粛省古浪県)や昌松に拠り、軍を興して姑臧に迫ったが、呂光は破って旧前涼の支配地域をほぼ掌握することに成功した。389年2月に呂光は三河王を称し、396年6月には国号を大涼として天王の位に即位した。

呂光は388年以来西秦と対立し、392年8月には西秦の当時の首都である金城を落とした。さらに西秦に攻勢をかけた結果、395年7月に西秦を服属させるに至った。しかし397年1月の西秦攻撃には失敗。しかも敦煌や酒泉で漢人による反乱も発生するなど、次第に衰退の兆しが浮き彫りになる。このため後涼東南部では鮮卑が南涼を建国して離反した。

後涼の君主[編集]

  1. 太祖懿武帝(呂光、在位386年 - 399年) - 呂婆楼の子
  2. 隠王(呂紹、在位399年) - 先代の嫡子
  3. 霊帝(呂纂、在位399年 - 401年) - 先代の兄。先々代の庶長子
  4. 後主(呂隆、在位401年 - 403年) - 先代の従兄弟
  • 呂光ははじめ、涼州刺史・西羌校尉を称した[3]
  • 呂光は386年に酒泉公を称した[4]
  • 呂光は389年に三河王を称した[4]
  • 呂光は396年から天王を称し、以後歴代は天王を称した[4]
  • 呂光は399年、死の直前に太上皇帝(上皇)を称した[5]

元号[編集]

  1. 太安386年 - 389年):一説に「大安」
  2. 麟嘉(389年 - 396年
  3. 龍飛(396年 - 398年
  4. 承康(不詳)
  5. 咸寧399年 - 401年
  6. 神鼎(401年 - 403年

脚注[編集]

  1. 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P184
  2. 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P151
  3. 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P129
  4. a b c 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P175
  5. 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P130

参考文献[編集]