高城 (新納院)

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高城(たかじょう)とは、現在の宮崎県児湯郡木城町高城にかつて存在した日本である。耳川の戦い九州征伐などで知られる城である。

概要[編集]

この城は木城町の南部、小丸川に臨む高さ30メートルほどの丘の上に存在したという。現在は城山公園として整備されており、遊具施設などもある。またの名所であり、には多くの花見客で賑わい、高城の街並みや日向灘を臨む眺望にも恵まれている。

この城は南北朝時代建武2年(1335年)に薩摩国島津氏の一族である新納時久によって築城された。その後に財部(高鍋)の土持氏が支配し、室町時代中期の長禄2年(1457年)に都於郡城主の伊東祐堯土持景綱を破って支配下に置いた。

天正5年(1577年)、伊東義祐日向国から追放した島津義久は、腹心の山田有信を城主に任命する。天正6年(1578年)、伊東義祐の懇請を受けて日向国に侵攻した大友宗麟の大軍に高城は包囲されて攻撃されるが、山田はわずか500人の兵をもってよく守備し、その間に薩摩国から後詰にやって来た島津義久らと連携して反撃を開始。これにより発生した耳川の戦いにおいて大友軍をほぼ壊滅させ、島津氏の九州での覇者としての地位を確固たるものとした。

天正15年(1587年)、大友宗麟の懇請を受けて当時、中央を支配していた豊臣秀吉の大軍が九州征伐のために押し寄せ、高城は今度は豊臣の大軍に包囲される。この時に城を守備していたのがまたも山田で、わずか1500の兵力でまたも豊臣軍を何度も撃退した。結局、当主の島津義久のほうが先に豊臣秀吉に降伏し、その島津義久の説得を受けて秀吉の弟・豊臣秀長に対して開城して降伏している。

現在は本丸、七曲の丸跡などの土塁、堀などを残しており、2度も圧倒的な大軍を撃退した往時の堅城ぶりを現在に伝えている。なお城付近には攻め手側の軍営や塁の跡、さらには耳川の戦いの際の戦死者を葬って築かれたという宗麟原供養塔がある。

アクセス[編集]