社青同解放派

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革労協から転送)
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社青同解放派(しゃせいどうかいほうは、略称:解放派)は、日本社会党系の青年組織である日本社会主義青年同盟(略称:社青同)から生まれた新左翼の一派。中心的な政治組織は革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)(略称:革労協)。革労協は以下の3つの党派に分裂した。

概要[編集]

政治的潮流としての原点は、1961年5月に滝口弘人社青同学生班全国学生班協議会機関誌『解放』6号(5号までは東大班の機関誌)に発表した「共産主義=革命的マルクス主義の旗を奪還するための闘争宣言(草案)」(通称:ナンバー・シックス)。組織建設の端緒は、1961年12月に結成された秘密組織「共産主義者通信委員会」(略称:KTC、通称:学校)。社青同内部に形成された解放派は、1965年3月に学生組織「日本社会主義青年同盟全国学生斑協議会解放派」、9月に党派「社青同解放派(東京)」を公式に結成した[1]。1966年9月の社青同東京地本大会で執行部の協会派と衝突し、解放派の社青同東京地本が独立した。委員長は樋口圭之介。1969年9月に「社青同解放派(東京)」を発展的に解消して「革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)」(略称:革労協)を結成した(『日本における「新左翼」の労働運動』によれば社青同解放派が革労協に改称した)[1][2]。初代議長は吉田信弘(加藤弘美)。1971年2月の社青同第10回大会で解放派は集団除名されたため、9月に社青同第10回再建全国大会を開催し、自派傘下の社青同(通称:社青同解放派)を結成した。初代委員長は樋口圭之介。機関紙は『団結の砦』。

指導者は滝口弘人、中原一狭間嘉明高見圭司など。革労協は1977年2月に中原一書記長が革マル派に殺害されことを契機として、狭間嘉明学対部長を中心とする内ゲバ・軍事路線志向の学生出身活動家グループ(狭間派)と、滝口弘人議長、加藤弘美労対部長を中心とする大衆運動・労働運動重視の労働者グループ(労対派)が対立し、1981年6月に分裂した。1982年に労対派は革労協から分裂して「革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)再建全国連絡会議」を結成し、1985年に「革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会」に移行した。1999年5月に革労協狭間派から山田茂樹ら「革命的労働者協会(解放派)」が分裂した。

傘下団体[編集]

社会問題研究会編『全学連各派』(双葉社、1969年)によれば、社青同解放派(日本社会主義青年同盟学生班協議会解放派)が上部政治団体の団体には、全国反帝学生評議会連合(反帝学評、1967年12月結成)、全国高校生反帝評議会(反帝高評)、反帝全学連(1968年7月22日結成)がある。

田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』(立花書房、1985年)によれば、革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)の傘下団体には、日本社会主義青年同盟、全国反帝学生評議会連合(反帝学評)、全国反帝高校生評議会連合(反帝高評)、全日本学生自治会総連合(解放派全学連)などがある。

機関紙[編集]

紙名 刊行巻次 題字欄の表示
革命 1号(1967年9月)~9号(1968年2月15日) 日本社会主義青年同盟全国学生班協議会解放派
10号(1968年3月1日)~39号(1969年9月1日) 日本社会主義青年同盟学生班協議会解放派
解放 40号(1969年10月1日)~ 革命的労働者協会(社会党社青同解放派)

脚注[編集]

  1. a b 霧山衛「解放派の組織建設史――共産主義者通信委員会(KTC)から革労協結成まで」『解放の通信』第10号、2013年7月
  2. 戸塚秀夫、中西洋、兵藤釗、山本潔『日本における「新左翼」の労働運動 下』東京大学出版会、1976年

関連文献[編集]

  • 永井啓之『仁王のように立ちて――永井啓之獄中書簡』(社会評論社、1990年)
  • 永井啓之追悼集編集委員会『永井!こっちに来い 今なおぼくたちと共にありつづける君に 永井啓之追悼集』(永井啓之追悼集編集委員会、1999年)
  • 樋口圭之介『六〇年代社青同(解放派)私史』(社会評論社、2012年)
  • 高原駿『沈黙と軌跡』(でじたる書房、2007年)
  • 高原駿『沈黙と軌跡 続編 逃亡者の食彩』(でじたる書房、2008年)
  • 岩井哲『"私の"東大闘争――駒場解放派の光と影』(柘植書房新社、2019年)
  • 長崎浩「アフター革命の日々――高原駿『沈黙と軌跡』」『叛乱を解放する――体験と普遍史』(月曜社、2021年)

外部リンク[編集]

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