関盛忠

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関 盛忠(せき もりただ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。兄弟に一政盛吉一利氏俊らがいる。織田氏家臣。仮名は四郎。

略歴[編集]

父は関盛信で長男といわれる。父と共に織田信長に仕え、天正2年(1574年)8月に信長から離反して出奔した樋口直房を討つのに功績を立てたので、8月25日付で羽柴秀吉からその功績を賞される書状を送られている。

ところが『瑞光寺文書』では、天正2年8月7日1574年8月23日?)に居城に戻って間もなく死去したとある。死因は記されてないが、少なくとも戦死では無いとされている。また、『寛政重修諸家譜』においては天正5年(1577年)7月7日に伊勢国長島において戦死とあるが、当時長島に敵対勢力は無く、疑問がある。『勢州軍記』においては天正2年(1574年)に伊勢長島で戦死したとあるため、同年の信長の伊勢長島一向一揆攻めに参加して戦死したと思われるが、とにかく盛忠の死は謎に包まれている。