門田康澄
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門田 康澄(かどた やすずみ、天文7年(1538年) - 文禄4年(1595年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。元は紀伊国根来衆の一員だったが、後に長宗我部氏の家臣となる。通称は次郎兵衛、新右衛門[1]。
元は紀伊の根来衆に属していたが、天正年間に土佐国に流れて長宗我部元親に仕えた。元の姓を能勢といった[1]。
伊予国美間郷の高森合戦で武功を立て、土佐長岡郡門田郷を所領として与えられた際に門田と改姓した。文禄2年(1593年)頃から病気に倒れて朝鮮出兵には参加できず、その2年後に58歳で死去した[1]。
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