長谷川英憲
長谷川 英憲(はせがわ ひでのり、1938年3月6日[1] - 2022年5月8日[2])は、日本の政治家。都政を革新する会代表[1]。元東京都杉並区議会議員、東京都議会議員。中核派であるとされる[3][4][5]。
選挙などでは、長谷川ひでのりの表記も用いる。
来歴[編集]
長野県軽井沢町生まれ[1]。1957年、小諸商業高校卒業。会計検査院に就職。労働組合青年部役員として60年安保闘争に参加する[6]。働きながら大学に通い[7]、1963年、早稲田大学第二政経学部卒業[6]。1965年、都議会汚職事件を契機に都政刷新杉並委員会の結成に参加する[7]。
1967年4月、杉並区議会議員選挙に出馬し、初当選[8]。以降、連続5期18年間杉並区議を務める[1]。同年10月[8]、中核派幹部の北小路敏と杉並革新連盟を結成[9]。1971年の杉並区議選では1万票近い記録的得票で第1位当選を果たした[3]。同年、無公害・無農薬食品などの「杉並共同購入の会」を創設[7]、消費者運動や反核運動に取り組む。1985年、杉並革新連盟を「都政を革新する会」に改組、同年7月、東京都議会議員選挙に出馬したが落選した[8]。
1989年7月、都議選に杉並選挙区から出馬し、約1万5000票を獲得、13人中6位で当選。新左翼では初の都道府県議会議員となった[4]。1993年6月、1997年7月の都議選、1999年4月の補選では落選した[1]。1999年、「ストップ介護保険 杉並10万人署名運動」を呼びかけ、介護保障運動に取り組む[7]。2000年6月、衆議院議員選挙に出馬し、2万2799票を獲得したが落選した[8]。2005年7月、再び都議選に杉並選挙区から出馬したが、7977票を獲得、13人中10位で落選した[10]。
介護と福祉を要求する杉並住民の会運営委員・事務局長、介護保険に異議あり全国ネットワーク事務局長[7][11]。
人物[編集]
- 杉並区議時代、都電廃止反対[12]、高円寺北再開発阻止、大型道路建設反対、反戦等を主張した[13]。
- 東京都議時代、国鉄分割民営化・大量不当解雇弾劾[12]、消費税廃止、臨海副都心開発反対等を主張した[13]。
- 中核派の支援を受けている。1975年の杉並区議選では中核派と対立する革マル派が大々的な落選運動を展開した。結果は2869票を獲得、56人中23位と大幅に減票したが、中核派は逆境をはねのけての当選は大勝利だと評価した[3]。
- 都議選に出馬した後、杉並区議選には後継の結柴誠一、新城節子が「都政を革新する会」から当選しているが、2人は2006年12月に離党して「無所属区民派」を結成した。翌年の杉並区議選では北島邦彦が「都政を革新する会」から出馬、当選した。
著書[編集]
- 『軍事都市に変貌する東京――中曽根の国家大改造と鈴木知事のマイタウン計画』 御茶の水書房、1985年
- 『独裁を撃つ――小沢一郎vs.長谷川英憲』 コスモス社、1993年
- 『民衆の選択――社会党村山政権と小沢戦争政治を斬る!』 コスモス社、1994年
- 『介護は全額公費負担で――自自公と石原都政にはノーだ』 コスモス社、1999年
- 『石原知事に挑戦状――とめよう戦争教育うばうな介護』 アール企画、星雲社(発売)、2005年 - 長谷川ひでのり名義
脚注[編集]
- ↑ a b c d e 日外アソシエーツ編『新訂 現代日本人名録2002 3.そ~ひれ』日外アソシエーツ、2002年、1651頁
- ↑ 長谷川英憲同志を偲ぶ 革命的労働者党の建設へ闘いぬいた「民衆の代表」 週刊『前進』04頁(3248号04面02)(2022/06/13)
- ↑ a b c 立花隆『中核VS革マル(下)』講談社(講談社文庫)、1983年、188-191頁
- ↑ a b 高木正幸『新左翼三十年史――年表・系図・索引付』土曜美術社、1988年、217頁
- ↑ 伊藤圭介、昼間たかし編『これでいいのか東京都杉並区』マイクロマガジン社(地域批評シリーズ2)、2015年、24頁
- ↑ a b 石原知事に挑戦状―とめよう戦争教育うばうな介護 紀伊國屋書店
- ↑ a b c d e 長谷川ひでのりプロフィール 長谷川ひでのり Official Site(アーカイブ)
- ↑ a b c d 都革新とは 都政を革新する会(アーカイブ)
- ↑ 北小路敏同志 闘いの軌跡 週刊『前進』08頁(2467号3面1)(2010/12/06)
- ↑ asahi.com:2005都議選 朝日新聞デジタル
- ↑ 石原知事に挑戦状 第1部 鼎談 都政を革新する会(アーカイブ)
- ↑ a b 介護は全額公費負担で ストップ介護保険杉並10万人署名運動
- ↑ a b 衆議院選挙に勝利しよう 革命的共産主義者同盟全国委員会