藤井直明
ナビゲーションに移動
検索に移動
藤井 直明(ふじい なおあき、享保5年(1720年) - 明和4年8月22日(1767年9月14日))は、江戸時代中期の尊王論者。父は藤井宗茂。初名は吉太郎。通称の右門(うもん)で知られている。生まれは越中国射水郡小杉宿(現・富山県射水市)。
生涯[編集]
父は藤井宗茂(又左衛門)といい、忠臣蔵で有名な播磨国赤穂藩主・浅野長矩の江戸家老を務めていた人物である。宗茂は赤穂藩が改易されると、越中国に帰農し、当地で直明が生まれたという。
直明は16歳のときに京都に遊学し、藤井忠義の養嗣子となった。竹内式部と知己を持ち、皇学所教授として尊王論を説いたという。宝暦7年(1757年)に宝暦事件が起こると京都から出奔し、江戸に出て山県大弐の門下に入った。明和3年(1766年)に山県と共に逮捕され、明和4年(1767年)に獄門の刑に処されて刑死した(明和事件)。享年48。
史跡[編集]
故郷の富山県射水市戸破4200(射水市社会福祉会館となり)に墓がある。旧国道8号線と下条川が交差する辺りに存在し、一段高い基壇の上の石垣をめぐらした中に立つ五輪の石塔である。これは昭和11年(1936年)10月に、東京浅草の妙高寺より分骨して立てられたものと言われている。