蔡陽
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蔡 陽(さい よう、? - 201年)は、中国の後漢末期の武将で、史料によっては蔡 楊とも記録されている場合がある[1]。
生涯[編集]
201年に汝南郡で劉備が袁紹に属して龔都らと共に曹操に対して反乱を起こしたため、曹操の命令で蔡陽が討伐に赴くが、敗れて戦死した[1]。
『三国志演義』では関羽と大変不仲に描かれ、関羽が曹操の下から辞去した際に追撃を願い出るが曹操から許されなかった[1]。関羽が関所破りをして甥と設定されている秦琪を殺された際にはその仇討ちをしようとしたがこれも曹操に許されなかった[1]。曹操の命令で黄巾の残党である劉辟を討伐する途中で関羽と遭遇して一騎討ちを挑むが、関羽によって斬殺されている[1]。