宋義

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宋 義(そう ぎ、? - 紀元前207年[1])は、末期の武将である。の反乱軍の主将を務めたが項羽に殺害された。子に宋襄

生涯[編集]

はじめ項梁に従い、楚の令尹(最高位の大臣)となる[1]

宋義は項梁と共に定陶を攻めるが、ここの秦軍は頑強に抵抗して落とせなかった。すると項梁は城攻めをやめて敵を油断させるために敵前で宴会を始めた。最初は策略であったが、次第に項梁の兵士はたるみ出して本当に油断するようになった。それを見た宋義は項梁に将兵を引き締めて士気を高めるように進言したが受け入れられず、へ援軍要請に赴くように命じられて陣営を離れた。この途上で宋義は斉の使者・高陵君に出会うが、この際に彼に対して「項梁大将軍の軍は長くないかもしれないから巻き添えを食らわないようにゆっくり行くように」と述べた。宋義の予言は的中し、定陶の援軍に来た章邯の夜襲を受けて項梁は殺された。

楚の懐王(義帝)は態勢を立て直すと、軍を二分して秦に当たろうとし、函谷関に向かう軍勢の総大将に宋義を任命し、上将軍とした。宋義は章邯の秦軍に攻められて滅亡寸前にあったを救援しようと進軍したが、安陽で軍を止める[1]と46日も動こうとしなかった。このため趙は再三にわたり救援を求め、楚軍においても兵糧が底を尽き始めた。項羽が行軍停止に怒りを覚えて宋義に詰め寄ると、趙に勝利したところで秦軍も疲弊しているからそこを突く、と述べた。そして息子の宋襄が斉の大臣に迎えられることになったので、送別の宴を開いて送り出した。

しかし項羽は不満を爆発させ、宋義が就寝中に陣営に乗り込んで暗殺した。そしてその首をかかげて宋義を不正を理由に処刑したと告げて軍を掌握する。宋襄に対しても項羽の追手が出され、斉の国境近くで殺害された。

脚注[編集]

  1. a b c 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.521

参考文献[編集]