呉 芮(ご ぜい、? - 紀元前202年[1])は、中国の秦から前漢にかけての武将・諸侯。
最初は秦に仕えて幡陽の県令を務め、その縁から幡君(番君)と称された[1]。楚漢戦争期には百越の兵を率いて項羽軍に身を投じて関中まで入り、その功績により衡山王に封じられる[1]。後に劉邦が皇帝として即位すると、部下の梅狷が劉邦に従って武関に入った功績により、長沙王に封じられた[1]。
彼の第16代目の子孫が、三国時代の魏で諸葛誕の長史を務めた呉綱である[2]。