福富記
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概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者は福富親政。通称は半右衛門なので、別称は『福富半右衛門親政法名浄安覚書』(ふくとみはんえもんちかまさほうみょうじょうあんおぼえがき)である。そのほか、『土佐福富覚書』(とさふくとみおぼえがき)、『福富浄安覚書』(ふくとみじょうあんおぼえがき)である。
親政は土佐国の戦国大名・長宗我部元親の家臣で、文禄元年(1592年)の時点で17歳とあるから、天正4年(1576年)となる。父は元親の重臣・福留儀重で、祖父は福留親政。いずれも元親の下で武勲で知られた名将である。
成立に関しては、寛永元年(1624年)7月以降まで記事があることから、それ以降となる。
内容[編集]
まず、父祖と自らの事績、主に戦歴について記している。祖父も父も元親に仕えた名将であったが、いずれも戦死したことを記している。そして、自分も文禄の役で戦功を立てたことを記している。
元親の死後は長宗我部氏を辞したとされ、伊予国の加藤嘉明に仕え、さらに井伊氏に仕えて大坂の陣で武功を立てたことを記している。なお、大坂の陣の際に旧主筋の長宗我部盛親に会いに出かけたことを記している。
寛永元年(1624年)7月、加賀国の前田利常に仕えたところで、覚書は終了している。
大坂の陣の際に旧主と会ったこと、浪人として各大名家を渡り歩いていることなど、興味深い覚書である。親政の49歳までの経歴を記している覚書である。