礒貝洋光
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選手情報 | |
---|---|
本名 | 礒貝洋光 |
英字表記 | Hiromitsu Isogai |
生年月日 | 1969年4月19日(55歳) |
出身地 | 日本、熊本県 |
身長 | 176 cm |
体重 | 88 kg |
ポジション | ミッドフィールダー |
クラブチーム | |
1992-1996 1997-1998 |
ガンバ大阪 浦和レッズ |
代表チーム | |
1995 | 日本 |
礒貝洋光(いそがい ひろみつ、1969年4月19日 - )は日本のサッカー選手。
プレースタイル[編集]
典型的な天才肌タイプの選手であり、クラシックなゲームメーカー。左右両足から繰り出されるフリーキックや、相手の隙を就くスルーパスなど翻弄するも、誰もが認めるテクニックを持っていたが、プレーにムラがあり、時折手を抜いたかのように思われるプレーも散見された[1]。
ガンバ大阪時代には攻撃的MFとしてプレーしていたが、高校や大学時代にはFWとして、また浦和レッズ時代には展開力を買われてボランチやリベロでプレーした経験も持つ。
人物・エピソード[編集]
- 帝京サッカー部では1学年上に岩本三郎、巻田清一、同期に飯島寿久、島根聡一、本田泰人、森山泰行、1学年下には池田伸康、遠藤昌浩、保坂信之、浅沼達也がいる。
- 高校1年時はセンターフォワードを務めたが、3年時には中盤に下がり攻撃の中心となる[2]。
- 日本代表時代のラモス瑠偉は「オレの後、日の丸の背番号10を背負うのは彼(礒貝)だと思う」と語っていた。[3][4]。しかし、Jリーグ開幕を目前にしてプロサッカー選手となり、ナビスコカップは8位、天皇杯ではベスト8へ進出。天皇杯で大怪我を負い、両足に人工靭帯を入れる手術を受けたため、1993年のJリーグ開幕をピッチで迎えることは出来ず、6月に試合に復帰した[1]。以降精彩を欠き、1995年以降、礒貝は代表に呼ばれることはなく、ラモスも前言を撤回し「ノボリ(澤登)が10番に相応しい」と、自身の後継者に礒貝の親友である澤登を指名した。
クラブチームの統計[編集]
年度 | リーグ | 番 | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|---|
G大阪 | リーグ | Jリーグ杯 | ||||
1992 | J | - | - | 8 | 0 | |
1993 | - | 28 | 6 | 4 | 0 | |
1994 | - | 40 | 6 | 3 | 0 | |
1995 | - | 37 | 13 | - | ||
1996 | - | 20 | 1 | 9 | 2 | |
通算 | 125 | 26 | 24 | 2 | ||
浦和 | リーグ | Jリーグ杯 | ||||
1997 | J | 14 | 10 | 3 | 0 | 0 |
1998 | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
通算 | 10 | 3 | 0 | 0 | ||
総通算 | 135 | 29 | 24 | 2 |
代表チームの統計[編集]
日本代表 | ||
---|---|---|
年 | 試合 | 得点 |
1995 | 2 | 0 |
通算 | 2 | 0 |
出典[編集]
- ↑ a b “礒貝洋光”. VICTORY (2009年8月8日). 2021年12月30日確認。
- ↑ “J草創期のレジェンドがしのぎを削った高校選手権【86年~89年編】 (1/2)”. サッカーマガジンWEB. 2022年1月10日確認。
- ↑ “礒貝洋光の美学「どうせ負けるなら…」 帝京PK戦、最後のキッカーは何を考えたか -”. スポーツナビ (2009年8月8日). 2022年1月2日確認。
- ↑ “消えた天才!礒貝洋光が50キロ大減量して狙う「数奇なゴール」”. Yahoo!ニュース。 (2009年8月8日). 2021年12月30日確認。