真田昌親
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真田 昌親(さなだ まさちか、天正11年(1583年) - 寛永9年7月21日(1632年9月5日))は、安土桃山時代の武将。江戸幕府の旗本。真田昌幸の3男で、真田信之・信繁の弟にあたる。
生涯[編集]
真田昌幸の3男か4男で、母は正室の山之手殿と言われる。通称は源五郎。諱は信忠とも。官途は蔵人・主計助・内匠頭。母親が山之手殿なので、信之や信繁とは同母の弟ということになる。
所領は現在の長野県上田市にある小県郡内村郷平井村にあった。関ヶ原の戦い後に父の昌幸と兄の信繁が紀伊国九度山に配流された際、昌幸との音信を交わして借用金を手配する役目を務めている。その他の事績については不詳。
寛永9年(1632年)7月21日に死去。法名は清涼院殿第安源及居士。墓所は長野県長野市の大林寺。
昌親の菩提を弔うため、兄の信之の次女・見樹院殿が寛文12年(1672年)に清涼院を建立し、この寺は大林寺の末寺となった。