滝川具挙
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滝川 具挙(たきがわ ともあき、? - 1881年(明治14年)5月11日)は、幕末の武士であり幕臣である。通称は三郎四郎。官位は従五位下・播磨守。
概要[編集]
先祖は戦国時代から安土桃山時代にかけての武士である滝川一益の娘婿となった滝川雄利である。禄高1200石の旗本の家に生まれる。1835年(天保6年)3月から安積艮斎の私塾で学ぶ。1864年(元治元年)、江戸幕府の大目付となる。
1868年(慶応4年)1月2日、徳川慶喜の「討薩の表」をたずさえて滝川具挙は京都にむかう。鳥羽の関所を守る薩摩藩士・椎原小弥太と問答の末、薩摩藩陣地から発砲され、これが鳥羽・伏見の戦いの発端となった。このとき銃砲の破裂音で馬が驚き、暴れて淀城まで逃げるという失態を犯して、旧幕府軍の士気を低下させたと言われる。
敗戦後は責任を問われ、2月8日に免職され、寄合となる。その後、江戸城登城禁止処分を受ける。4月9日に永蟄居となり徳川亀之助に従い、静岡に隠居した。1881年(明治14年)5月11日に没する。
墓は滝川家の菩提寺である桂徳院(東京都練馬区)。