深芳野 (斎藤道三側室)

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深芳野(みよしの、生没年不詳)は、戦国時代女性稲葉通則の娘で一鉄の姉とも、または一色左京大夫義清の娘ともされ、母は一色義遠の娘で一色義有土岐成頼の姉妹にあたる。土岐頼芸の愛妾でのちに斎藤道三側室となったといわれる。斎藤義龍の生母。

略歴[編集]

身長は6尺、現在の180センチもあったとされ、当時の女性の中ではかなりずば抜けた体格をしていたと考えられている。また、絶世の美女であったとされており、これが事実なら現在のモデルミス・ユニバースのような存在であったと推測される。

最初は美濃守護大名土岐政頼の弟・頼芸の愛妾となる。ところが当時、頼芸の腹心として活躍していた道三が頼芸に深芳野を欲しいと乞い、ひとつの勝負を持ち出した。それは襖に描かれた虎の目を槍で突けば深芳野を道三が貰い受けるが、失敗すれば道三は切腹するというものであった。そしてこの勝負に道三は勝利し、約束通り深芳野を頼芸から与えられたという。これには別の話もあり、頼芸は最初は拒否しようとしていたが、道三が凄まじい殺気で頼芸を睨みつけて下げ渡されねば直ちに刺し殺そうという態度を見せたので、恐れた頼芸は深芳野を下げ渡したとも言われている。また、当時の頼芸は道三を頼りにしていたので、道三を繋ぎとめるために恩を売っておこうとして、頼芸から進んで深芳野を下げ渡したとも言われている。時期は大永6年(1526年)12月と言われている。

大永7年(1527年)に深芳野は男子出産した。幼名は豊太丸、後の斎藤義龍であるが、これは下げ渡されて7か月後の早産だったといわれている。さらに土岐頼芸がこれを聞いて深芳野に土岐家家伝の宝である左文字の名刀を贈ってきたとされている。このため、義龍は道三の子では無く、実は頼芸の実子であるとする説が江戸時代の記録ではあるが紹介されている。この手の説は始皇帝などにも存在しており、実際のことは誰にもわからない。

深芳野のその後については不明で、没年などもわかっていない。

参考文献[編集]

関連項目[編集]