波川清宗

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波川 清宗(はかわ きよむね、? ‐ 天正8年(1580年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将長宗我部氏家臣で、長宗我部元親の妹婿[1]

略歴[編集]

官途は玄蕃。蘇我氏子孫といわれ、妻は長宗我部元親の妹である。土佐国高岡郡波岡城主として鎌田・大内・小野・成山など仁淀川の流域を支配して勢力を振るった。また、元親の妹婿であることから元親の四国制圧に大きく貢献して軍功を多く挙げた。そのため、天正2年(1574年)に一条兼定追放されると、幡多郡山路城主に任命された[1]

しかし、数多くの軍功を挙げたことをいいことに酒色にふけるようになり、さらに博打や狩猟をしたり、領民を虐げて人心を失うなど目に余る行為が目立ち始めたため、元親は本領の波川において篭居するように命じた。しかし清宗はこの元親の処置を逆恨みし、謀反を計画して各地の武将に賛同をつのる回文を送ったりしたが、応じる者はいなかった。やむなく、一条内政伊予国北ノ川城主・北ノ川左衛門大夫の協力を得て挙兵しようとするも、計画が事前に露見して剃髪して逃亡する。阿波国海部において元親の弟・香宗我部親泰を頼ろうとするも捕縛され、天正8年(1580年)に元親の命令で自害させられた[1][2]

遺骨は波川の法願寺山に葬られた[2]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c 山本大「長宗我部元親のすべて」P204
  2. a b 山本大「長宗我部元親のすべて」P205

参考文献[編集]