江戸三大飢饉
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江戸三大飢饉(えどさんだいききん)とは、江戸時代に日本で起きた飢饉のうち、最も大きな3つの飢饉(享保の飢饉・天明の飢饉・天保の飢饉)のことである[1]。
享保の飢饉[編集]
1732年(享保17年)、イナゴの害を主因として西国一帯に起こった大飢饉[2]。飢人数は260万人以上、餓死人も1万2000人以上となった[2]。米価が急騰し、翌年江戸で打ち壊しが起きた[2]。
天明の飢饉[編集]
1782年(天明2年)から1787年(天明7年)に至る全国的大飢饉[3]。特に奥羽・関東地方の被害が大きかった[3]。洪水や浅間山噴火などによる凶作が飢饉の原因とみられている。餓死者・病死者は全国で90万人を超えた[3]。各地で一揆・打ち壊しが発生し、老中田沼意次の失脚を早めた[3]。
天保の飢饉[編集]
1833年~1837年(天保4年~8年)に起こった、長雨・洪水・冷害などによる大飢饉[4]。大塩平八郎の乱をはじめ全国的に百姓一揆・打ちこわしが続発[4]。江戸幕府の体制的危機を促した[4]。