楊肇

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楊 肇(よう ちょう、生没年不詳)は、中国三国時代から西晋にかけての武将[1]

生涯[編集]

魏の第2代皇帝・曹叡(明帝)の時代に中護軍の地位にあった楊曁の子[1]。子に楊潭楊歆らがいる。

魏の時代からその存在が確認されているが、魏の時代における職歴などは不明である。西晋の司馬炎(武帝)に仕え、272年には荊州刺史の地位にあった。そのため、同年に歩闡が反乱を起こして西晋に帰順した際、楊肇は羊祜と共に歩闡の救援に向かうことになる。しかし歩闡討伐に呉からは陸抗が派遣されており、陸抗は堤防を決壊させることで江陵にいる羊祜軍の進軍を阻むと、西陵にまで進出していた楊肇と対峙する。羊祜軍なしで名将・陸抗にはかなわない楊肇は万策尽きたと見て夜陰に紛れて撤退するが、それは陸抗に読まれており、太鼓を打ち鳴らされて浮足立ったところを追撃されて大敗した。この敗戦により歩闡も殺されることになる[1]

三国志演義』には登場しない。

脚注[編集]

  1. a b c 小出『三国志武将事典』P283

参考文献[編集]