松平民部

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松平 民部(まつだいら みんぶ、天正10年(1582年) - 元和元年(1615年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将徳川家康落胤とされる。母は法光院(お松)。

生涯[編集]

家康の落胤とされているが、それを記録しているのが『源流粽貫』しかないし、家康の落胤なのにがわかっておらず、信憑性が疑問視されている。

家康が42歳の時に生まれたため、厄年に当たることから忌み嫌われて、結城秀康養子にされたという。しかし、秀康と民部の年齢差はわずか8年で、養育できる年齢ではないので、恐らく秀康の母である長勝院(お万の方)が引き取って養育したものと思われる。なお、厄年に生まれたのを理由に、家康からは実子として認められなかったという。

秀康が越前国福井藩主になると、越前藩士として召し出され、秀康の死後はその子・松平忠直に仕えた。大坂の陣では徳川方として参加し、越前藩の軍勢を率いる大将の1人として真田信繁らと戦って戦功を挙げた。しかし戦後間もなく、越前で死去した。享年34で、養父の秀康と奇しくも同年齢だった。