李鵬

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李 鵬(り ほう、リー・ポン、原名:李 遠芃1928年10月20日 - 2019年7月22日)は、中華人民共和国政治家国務院総理首相)、全国人民代表大会常務委員会委員長(国会議長に相当)、中国共産党中央政治局常務委員などを務めた。初代国務院総理の周恩来鄧穎超夫妻の養子となり、建国の元老である養父母を後ろ盾として国務院トップまで上り詰めた2世政治家だった。

経歴[編集]

中華民国上海の出身。実父は中国国民党処刑されている。このため「革命烈士」の遺児として中華人民共和国建国の元老である周恩来夫妻の養子として育てられ、1948年ソ連に留学し、モスクワ動力学院で学んだ。1966年から北京で電力関係部門に勤務している。1983年に副首相に就任した。

1987年に改革派の総書記・胡耀邦が失脚し、趙紫陽が後任の総書記に就任したのに伴い、首相代行に就任する。1988年全人代において正式に首相に就任した。しかし政治改革を進めようとする趙紫陽と激しく対立し、1989年天安門事件においては同年5月の北京への戒厳令発令、そして6月の民主化運動勢力の武力弾圧で主導的な役割を果たしたとされている。保守派の重鎮として知られており、習近平の父で趙紫陽と同じ改革派であった習仲勲副首相とも胡耀邦の更迭や天安門事件の対処をめぐって対立している。

首相を10年間在職した後、江沢民の時代には中国共産党序列2位として全人代の常務委員長(日本では国会議長に相当)に就任した。2003年3月に全人代常務委員長を引退し、以後は政界から距離を置いている。

留学の経緯から「電力の専門家」として首相時代に世界最大級の三峡ダムの建設を推進した。しかし前述の天安門事件の対処やこれ以外には政治的業績は非常に乏しい。経済政策や運営に関しては副首相の朱鎔基が主導しており、そのため評価されるより、民主活動家や天安門事件の犠牲者の遺族から非難されるほうが多かったという。三峡ダムに関しても批判のほうが強かった。

日本との関係については1989年、1997年に訪日し、日中国交正常化30周年の2002年にも訪日して小泉純一郎内閣総理大臣と会談していることで知られている。

2019年7月22日、病気のため、北京で死去した。90歳没。

死去にあたり、新華社は「(天安門事件の際に李鵬が)果断な措置で反革命暴乱を平定し、党と国家の運命に関わる闘争で重要な役割を発揮した」と評価している。

外部リンク[編集]