李 堪(り たん、? - 211年)は、中国の後漢末期の武将。涼州の小軍閥の一人[1]。
河東郡の出身。194年から195年にかけて1000戸の部落を領有していた関中の軍閥である[1]。211年3月に馬超・韓遂と共に曹操に対して反乱を起こし、曹操と戦って敗れ、成宜と共に戦死した[1]。
『三国志演義』では韓遂の手下八部の一人とされ、馬超が韓遂と対立してその陣営に切り込み、さらに曹操軍とも乱戦になる中で于禁の矢が当たって戦死した。