杉浦重剛

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杉浦重剛

杉浦 重剛(すぎうら じゅうごう、安政2年3月3日1855年4月19日)- 大正13年(1924年2月13日)は、明治時代大正時代国粋主義教育者思想家。幼名は譲次郎。父は膳所藩の儒者・杉浦重文近江膳所藩(現在の滋賀県大津市)出身。若き日の昭和天皇秩父宮雍仁親王高松宮宣仁親王の3兄弟に帝王学の一環として倫理を進講する。号は梅窓または天台道士。学生時の渾名は紙魚(しみ)。後に『人格高邁の国士』と評される。理学宗の世界観を確立した。

経歴[編集]

明治9年(1876年)にイギリス留学して化学を専攻する[1]。しかし病気のため、明治13年(1880年)に日本に帰国した[1]。明治18年(1883年)に東京英語学校を設立した

教育家・評論家としてこの頃から名を知られるようになり、雑誌『日本人』の発刊に尽力し、『読売新聞』や『東京朝日新聞』などにも寄稿して国粋主義を唱えた[1]国学院学監、皇典研究幹事長、東亜同文書院長などを歴任し、大正3年(1914年)に東京御学問所御用係となり、若き昭和天皇の倫理学を担当する講師となった。大正8年(1919年)からは後に昭和天皇の皇后となる久邇宮良子(香淳皇后)にも倫理学を進講する[1]

もともと腎臓炎を患っており、次第に病状が悪化して大正13年(1924年)2月13日に死去した[1]享年70[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f 『事典有名人の死亡診断 近代編』2010年、157頁

参考文献[編集]