杉江勘兵衛
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杉江 勘兵衛(すぎえ かんべえ、? - 慶長5年(1600年)8月)は、安土桃山時代の武将。石田三成の家臣。
略歴[編集]
石田三成の家臣で、慶長5年(1600年)の関ヶ原の前哨戦となる岐阜城の戦いの際、東軍が岐阜城に迫るや、その気勢を挫くために同僚の舞兵庫、森九兵衛らと1000の兵を率いて合渡川に出陣し、東軍の黒田長政、田中吉政らの軍勢と死闘を繰り広げた。しかし、敵の勢いの前に撤退を余儀なくされ、杉江は殿軍を務めることになる[1]。
杉江は武勇に優れ、9尺に及ぶ朱柄の槍を奮って大いに奮戦したが、その勇姿が逆に田中吉政の家臣で同じく勇将として知られる西村五右衛門という者に見止められ、渡り合うことになった。両者は全くの互角だったが、杉江は既に奮戦すること数時間に及んで疲労していたため、西村に手槍を投げつけて倒そうとするも、西村は傷つきはしたもののひるまずになおも反撃。杉江は遂に討ち死にを遂げたという[1]。
Wikipediaでは辻重勝なる者が杉江を倒したと出鱈目が書かれており、Wikipediaの信頼性の乏しさをよく物語る記事となっている。