本間雅晴

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本間 雅晴(ほんま まさはる、明治21年(1888年11月27日) - 昭和21年(1946年4月3日)は、日本陸軍軍人。台湾軍司令官、第14軍司令官などを歴任。最終階級は陸軍中将太平洋戦争フィリピン攻略を指揮したことで知られる。英語が堪能で文学の才能もあり、文人将軍とも呼ばれる。

経歴[編集]

太平洋戦争開戦前[編集]

新潟県出身。陸軍士官学校に進み19期卒業。その後陸軍大学校に進学し27期卒業。兵科は歩兵。 陸大卒業後はイギリスに駐在し、大使館付武官も勤める。1935年(昭和10年)には歩兵第32旅団長、1936年(昭和11年)には参謀本部付としてヨーロッパに出張する。帰国後の1937年(昭和12年)には参謀本部第2部長に、1938年(昭和13年)には第27師団長に就任する。1940年(昭和15年)には台湾軍司令官に任命され、台湾に赴任する。

太平洋戦争開戦後[編集]

開戦約1ヶ月前の1941年(昭和16年)11月6日に第14軍司令官に任命される。同年12月8日に太平洋戦争が開戦し、12月22日には本間率いる第14軍がアメリカ領フィリピンのリエンガン湾に上陸する。アメリカ軍のダグラス・マッカーサー大将は首都マニラを無防備都市と宣言し、バターン半島に退却する。1942年(昭和17年)1月2日、第14軍はマニラを無血占領する。1月9日には治安専門の第65旅団にアメリカ軍が退却したバターン半島攻撃を命じる。第65旅団はある程度追い込むことはできたものの、兵力のほとんどを失い壊滅する。4月3日から援軍が到着し攻撃を再開。4月11日にはアメリカ軍が降伏し、約7万人が捕虜となる。捕虜たちをバターン要塞から収容所のある半島の付け根サンフェルナンドまで移動する必要があるが、自動車など用意できない日本軍は徒歩で数十キロ行進させる。炎天下の行進で、マラリアなどで弱っている米兵約1万7千人が死亡し、アメリカによってバターン死の行進と避難される。同年8月には第65兵団敗北の責任を取り予備約に編入される。

終戦後、バターン死の行進について裁くため、アメリカによってマニラ軍事法廷に戦犯として出廷させられる。裁判最終日に本間の妻富士子は、夫に対する尊敬の念を 証言し法廷にいたものは涙したという。しかし判決は最初から決まっていたようなもので絞首刑となったが、富士子は帰国し、マッカーサー元帥に願い出て銃殺刑に変更される。バターン攻撃から丁度5年後の1946年(昭和21年)4月3日に執行される。

略歴[編集]

  • 1935年(昭和10年)8月1日-陸軍少将に昇進。歩兵第32旅団長
  • 1936年(昭和11年)12月1日-参謀本部付
  • 1937年(昭和12年)7月21日-参謀本部第2部長
  • 1938年(昭和13年)7月25日-陸軍中将に昇進。第27師団長
  • 1940年(昭和15年)12月2日-台湾軍司令官
  • 1941年(昭和16年)11月6日-第14軍司令官
  • 1942年(昭和17年)8月1日-参謀本部付
  • 1942年(昭和17年)8月31日-予備役に編入