最上陣実記
最上陣実記(もがみじんじっき)とは、慶長出羽合戦に関する史料である。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者も成立年代も不詳である。ただ、直江兼続をかなりの愚将[注 1]として描いているため、江戸時代でもかなり後代の史料の可能性がある。
別称は『慶長五年九月最上陣実記』(けいちょうごねんくがつもがみじんじっき)。
内容[編集]
全1巻。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際に会津の上杉景勝が直江兼続に上杉軍を預けて出羽国の最上義光領に侵攻させたことにより発生した慶長出羽合戦について記録した軍記物である。
会津征伐から書き起こし、石田三成の挙兵を知った家康は上方に撤退を開始。これを見た直江は景勝に最上領侵攻を進言。景勝は1度は拒否したが、直江が強硬に迫って遂に侵攻を命令した。ただ、『最上義光物語』では景勝・兼続と三成は共謀していたとしているのに、この軍記はなぜか共謀説を否定している。最上領侵攻の理由を直江は「義光が上杉の領民をそそのかして、米沢城領内をたびたび侵したための報復」としている。
直江はまず前哨戦として幡屋城を苦戦の末に落とした。そして勝利に乗じて一気に義光の居城・山形城を落とそうとしたが、上泉泰綱が山形城は堅城であり一気に落とすなど不可能で、周りの城を落として山形城を完全に孤立させて撤退すればよい、と進言。しかし直江は、愚かにもこの進言を受け入れず、そればかりか上泉を勇士とは思えぬ言として辱めた。
上泉の予想通り、長谷堂城の志村光安は直江に対して徹底抗戦。この間に義光は嫡子の最上家親[注 2]を伊達政宗の下に派遣して援軍を要請。政宗はこれに応じて6000[注 3]を派遣し、政宗も自ら出陣した。一方、上杉の別動隊が上山城に攻め寄せたが、わずかな数の最上軍に散々に敗れた。長谷堂城の上杉軍は志村の抗戦の前に手も足も出ず、上泉は以前に直江から辱めを受けていたことから、直江の命令を聞かずに突撃して戦死した。そして、関ヶ原の敗北を知って直江は撤退。それを義光をはじめとした最上軍により追撃されるが、直江は最上の追撃を跳ね返して撤退する。なお、この追撃では前田慶次も登場している。
屋地城には直江兼続の家老である下吉忠が立て籠っていたが、直江の撤退と義光の攻撃により進退窮まり、切腹しようとした。しかし、義光から助けの手が差し伸べられ、遂に降参して義光の家臣となった。これを知った直江は激怒し、吉忠の妻子を磔に処したという。
このように、ただでさえ暗愚な直江兼続をさらに暗愚に描いた軍記である。