志村光安
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志村 光安(しむら あきやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。最上氏の家臣。高治(たかはる)ともいう。
経歴[編集]
義光の腹心として特に武勇に優れ、いかなる強敵も降らせる名将として知られていたという。『最上陣実記』によると、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける慶長出羽合戦の際、義光の命令で山形城の手前に存在した長谷堂城をわずかな兵で守り、2万の大軍を率いて来襲した直江兼続率いる上杉軍に対して徹底抗戦した。同書によると、直江の愚劣な指揮もあって光安は最後まで長谷堂城を守り抜き、この功績を義光から賞されて酒田を所領として与えられた。
晩年には羽黒山に五重塔を修造している。慶長14年(1609年)に死去した。