戸川記
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概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者は戸川氏の元家臣と見られ、著書の中に校訂者の私見で「此書元戸川氏の家士」とあるためである。成立年代は記事の最新が延宝7年(1679年)、戸川主計が旗本5000石になるというところなので、それ以後となる。『翁草』に似たような記述が見えるため、安永元年(1772年)以前となる。
内容[編集]
備前国宇喜多氏の重臣・戸川秀安とその子・戸川達安の事績を中心に、それを取り巻く織田信長から徳川家康までの時代と、主家であった宇喜多氏の動向を背景に書いた家記である。
まず、戸川氏について秀安の出生を加えて書いている。その後、秀安が宇喜多直家、宇喜多秀家に仕えて活躍した事績、秀安が隠居して子の達安が家督相続した後の活躍、宇喜多騒動での達安の追放、関ヶ原の戦い、戦後に家康から備中国庭瀬藩主として取り立てられたこと、そして達安の子孫が庭瀬藩主になるが、数代後に子孫が断絶して庭瀬藩が絶えた、と記している。
なお、この著書の校訂者は前述の「家士」の後にこう批評を加えている。「偏候処にして其主家を輝かさんと書る」と。すなわち、戸川達安の「理に不当な行為」をまるで「節義」あるかのように書いている、として批判しているのである。宇喜多騒動で達安は宇喜多家中から自ら退転したはずだが、この著書では「達安は秀家に家中から追放された」と書かれているのが、それを物語っているといえるのかもしれない。