岩崎小弥太

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岩崎 小弥太(いわさき こやた、1879年8月3日 - 1945年12月2日)は戦前における四大財閥の一つである三菱財閥の4代目総帥である。なお、名前は当時の文体では岩崎小彌太となる。

学生期[編集]

三菱財閥2代目総帥岩崎弥之助の長男として東京都(当時は東京府)に生まれた。

1885年に学習院予備科に入学したが、1889年に東京高等師範附属小学校に転校。1891年に高等師範学校附属中等科(現在の筑波大学附属中学校)に入学。そのまま卒業して第一高等学校に入学した。その後、東京帝国大学法科大学に入学したが一年余りで中退した。

1902年にケンブリッジ大学に入学した。当時、外国に留学することは大変なことであり、受験勉強に一年以上を費やした。受験勉強の際には、今村繁三浜口担松平恒雄といった人物と交流があった。無事、ケンブリッジ大学には入学し、優秀な成績で1905年に卒業した。

副社長時代[編集]

留学から戻ってくると、父親である三菱財閥社長弥之助の厳命により、副社長に就任した。本人は政治家を志していたが、周りからの期待もあり、就任を受け入れ、1906年に三菱財閥副社長となった。1907年には、島津孝子と結婚している。

従業員同士で親睦を深めるために設立された三菱倶楽部には、熱心に運営した。この団体では、陸上運動、水上運動、総務、文芸、武道の独立の事務局を持ち、現在の三菱養和会へとつながっている。

また、西洋音楽についてもチェロを習うなど、関心を示し、西洋音楽の発展に尽くした。

中村春二に協力して1912年の私立成蹊実務学校の設立にも関わった。

社長時代[編集]

1916年に岩崎久弥の後を受けて三菱合資会社社長に就任した。

成蹊学園とも関係を保ち、1919年に財団法人成蹊学園理事長に就任、1925年の成蹊高等学校設立にもかかわった。

1934年には三菱造船会社と三菱航空機会社を合併させ、三菱重工業株式会社を設立した。この合併には、三菱会社内部や陸海軍から異論が出ていたが、経理上の効率や技術的な原理が同じものがあることなどから、軍部を説得し、合併を成功させた。重工業という言葉は当時の日本にはなかったが、小弥太がこのとき初めて発案し、現在広くつかわれるようになっている。

1937年に三菱合資会社を持株会社三菱社と社名を変更した。

1945年の第二次世界大戦敗戦によるGHQ財閥解体指令において三菱は不当利益を得たことはないとして、自主的解体を拒否。それでも周りの説得などもあり、1945年11月1日には社長を辞任、財閥解体を受け入れた。

1945年12月2日、10月から悪化していた老人性動脈硬化により亡くなった。

 略年譜[編集]

  • 1879年8月3日 三菱の創始者である岩崎弥太郎の弟の弥之助の長男として東京府(現在の東京都)で生まれる
  • 1906年5月14日 三菱合資会社副社長に就任
  • 1907年3月23日 生涯の伴侶となる島津孝子と結婚
  • 1916年7月1日 三菱合資会社社長に就任
  • 1945年11月1日 三菱合資会社社長を退任
  • 1945年12月2日 東大病院にて亡くなる

参考文献[編集]

外部リンク[編集]